電話

8

「この前は僕の事ばかり話してしまったから、良ければ君の事を聞きたいんだが。立場は違わない筈だろ?」
「僕はマスターにコースターを渡して、君から電話が掛かってきた。君は僕の事を得体も知れない相手だと思っているだろうけど、言ってみれば君だってそうさ。正確には君がまだ何者なのかわからない」
私のペースで話そうと思ったが、また相手にペースを掴まれてしまった。
「信頼出来なければ、またおじさんの昔話が始まるけど、どうする?」
挑発されている様でカチンときた瞬間、昼間の私ではない、仮面を被った意地の悪い私が出てきた。
「別に良いですよ。面白い話は何も出てこないですが。この前の話、私にはまったく無関係です。確かに私の名前はアサミで合ってて驚いたけど、多分漢字が違うと思いますよ。麻に美しいと書くのでマミと読み間違えされる事もあるんです」
「それに両親は生きています。今は一緒に暮らしていないけど、元気に暮らしています。だからあなたの娘さんとは別人です」
「……そうか。僕の知っているアサミとは別人か。まあ、そうだろうね」
まるで子供みたいだと自分でも思う。こんなチープな嘘を付くなんて。
「次は私の番です。エヴェレットがどんな所か、どこにあるのかまったく覚えていないんですか?」
「君と一緒だよ。僕も良く覚えていないし、誰か知っている人がいないか探してみたんだ。ネットでも調べてみた。でも誰も知らないんだ。知り合いのバーテンダーにも聞いてみたけど、そんな店は聞いたこともないらしい。という事で手掛かりは全く無し」
そんな事があるだろうか。この人は私と違う日にあの店を訪れたと言っている。という事は少なくてもその二日間は、エヴェレットは存在していた筈だ。
「あなたが行ったエヴェレットと違う場所の可能性もあります。ほら、チェーン店だったとかで……」
「流石に今の時代、チェーン店だったらサイトぐらいある筈だと思うけどね。雰囲気が良ければお客さんが自分のブログに店名ぐらい書くかも知れない。にも関わらず店名では何も引っかからなかったよ」
ネットはあまり得意ではないので、そういったものなのかと納得してしまった。確かに都心にあるバーで、今時宣伝ぐらいネットでもするものなのだろう。

「僕が行ったのは池袋から少しはずれた場所にある……いや、ある筈のエヴェレットだが」
「多分同じです。複数店舗があると思えないし、あったら見つけているだろうし。昨日思いあたりそうな場所を池袋駅から探し歩きました。行った筈の日はそこまで歩き回った記憶は無いですけど……」
こんな事ってあるのだろうか。例えば何か飲食系のイベントで期間限定で出店するとかは聞いた事がある。そんな賑やかそうな所に入る筈もないし、看板も据付の物だった筈だ。
「奇妙な偶然で片付けるには少し面白くないね。僕も出来る事ならあのマスターにもう一度会ってみたいと思っているんだ。……気になったのが、君と僕は似た経験をしているが、少し違うところがある」
「僕はマスターとのやり取りを覚えている。その部分しか覚えていないんだ。そこまで酔ったつもりもないんだがね。君はエヴェレットという名前しか覚えていない。マスターもどんな人だったか記憶にないんだろう?記憶の無くし方が似通っているのに、残っている記憶に違いがあるんだ。何か違和感を感じないかい?」
記憶喪失に違いがある事なんて当たり前じゃなかろうか。説得力があるんだか無いんだか分からない推論だが、確かに釈然としないものがある。
「そう、二人共に今まで記憶を無くした事がないんだよ。少なくてもお酒ではね。これは非常に重要だと思うんだ。僕は自分で言うのもなんだが酒に飲まれた事は一度もない。あまり酔わない体質なんだ」
「私もそうです。……強めのリキュールやスピリッツをストレートで朝まで飲んだって仕事に行く自信はあります」
「はは。それは頼もしいな。スピリッツなんて言葉が出てくるぐらいだから、そうとう好きなんだろうね。僕もズブロッカやクエルボとか、タンカレーが好きだよ。君のイメージが少し具体化したよ」
タンカレー……緑色のボトルで数字の10が書いてあるラベルは見た覚えがある。
「なのにエヴェレットに行った日だけ、普段酒に酔わない二人が記憶を無くした。ここが気になるんだ」

この人が正直に話しているのなら、確かに気味が悪い話だ。何か薬を盛られた可能性も否定は出来ない。でも、記憶を無くしたと告げたのは私からだ。相手が話を合わせている事も、まだ十分に考えられる。
「まあ、いずれにせよだ。何かされる様な怪しい店ならば、見つける事が出来ても立ち寄らないのが正解なんだろうね。僕は楽しかったからもう一度行ってみたいがね」
「……エヴェレットがですか?」
「いや、マスターのお陰で会いたい相手を綺麗な形で思い出せて楽しかったのさ。まあエヴェレットに行かなければそんな事もなかったから、エヴェレットが楽しいというのも合っているか……」

疑念が確信に変わりかけて、胸の奥から鼓動が響きし始めた。ダメだ。確かめないと気が済まなくなってきた。止まれ。きっと踏み込んだら駄目なんだ。止まるんだ、自分を抑えるんだ。
「直ぐには会えない人なんですか?」
この人との会話で一番長い沈黙だったかも知れない。ただ、不思議と重い空気だとは感じなかった。それもまた確信の一つだったのかも知れない。
「僕の妻と娘だよ。事故で失ってしまった、大切な二人だ。無論、現実的では無いし、逢える訳は無い。でもね、たまにふと妄想するんだ。……もし二人が何処かで生きていてくれたらってね。だから ”会いたい” んだろうね」

激しかった動悸が急に静まり返る。波立った波紋が収まる様に、猛り狂う強風が唐突に無風になるように。理解はできない。でも理解はしている。今まで経験した事のない矛盾が襲ってくる。矛盾を越えた後に思考は停止した。いや正確には感情が思考よりも先に飛び出したのだろうか。当て嵌まる言葉が見つからないが、とにかく理解出来たんだと思う。その後の私は、人生の中で一番素直になった瞬間を実感したんだ。

続く
次回12月26日予定

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