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繋がった電話の相手が朝美だと確信した時から、正道は変わらぬ自分を見せる事が、朝美に対しての優しさであると考えていたし、そう振舞ってきた。
成長した娘の声を聴ける事など、二度とありはしない状況だ。予想外の奇跡にありったけの感情が津波の様に溢れてきたが、正道は必死にこぼさない様に抑えていた。この奇跡の時間を無駄にしたくはない。再開を喜び合うよりも、父として何かを成す事が重要だと考えたからだ。
電話が切れてしまった事は急だが、正道は後悔はしていなかった。

_____朝美が産まれてからというもの、幸せな香りを感じる事が多くなった。もちろん、それは幸恵と共に過ごす時間でも感じていたのだが、三人の輪が出来てからはより豊かな香りになっていた。
しかし、その芳醇な香りを蓄え始めた彼の人生は、交通事故によって、二度と手に入らない香りを失う事になる。
妻と娘に先立たれ、生きる目標が無くなり、目の前が暗闇に包まれ、これからの人生をどう生きるかという選択肢のみが残された。悩み抜いた末に彼が選択した人生は、幸恵と出会うきっかけにもなった考古学だった。
一人になって以前よりも考古学に注力するようになり、没頭する時間が彼の支えになった。そしてその時間を、辛さを忘れる為に貪欲に求めた。
しかし事故から二十年。いくら没頭していたとは言え、一人で居るには長過ぎる時間だったし、誤魔化し様のない寂しさや辛さは心に深くこびり付いたまま、いつしか彼の心の全体を侵食していた。
学会仲間と酌み交わす以外では酒を飲むことは殆ど無く、非常勤の仕事が終われば真っ直ぐ帰宅していたが、年末のその日は珍しく一件のバーが目についた。
ここで最後の一杯でも飲むか。その後眠るように死ねればもう充分だ。クリスマスを迎える前に人生を終わらせようと正道は考えていた。
時代遅れのギラついたネオンとは反して、落ち着いた内装の店内には正道以外の客は居なかった。
カウンターに座るのは腰が引けたが、一人客なのにテーブルに座るのも気まずいものがあり、ならばと敢えてカウンターの真ん中に座った。
置物の様にカウンターの中に座っていた老齢のマスターが、注文を聞く前にそっと黒い灰皿を差し出す。何も言っていないのに灰皿を差し出された事に戸惑ったが、コートにタバコの匂いでも染み付いていたのだろうと納得をした。
客が来なく暇を持て余していたのか、マスターの元々の性格か分からないが、置物の様な老齢のマスターは見た目とは裏腹に会話を途切れさせなかった。
話し相手になってくれたのは苦では無く、他愛ない占いの付き合いも一興に思え、一杯のつもりが長居をしてしまった。
コースターの裏に電話番号を書いたあたりまでは覚えている。その後の記憶が綺麗に無いのは正道にしては珍しい事だった。
記憶を無くした事よりも、朝美と思われる女性から電話が掛かってきた方が衝撃だった。
時代遅れのSF映画でもあるまいと、最初は訝しく思っていたが、” それ ”が事実であると認識するまでは驚く程スムーズだった。
その時正道はくだらないとは思ったが、あの老齢のマスターがサンタクロースの様に思えた。そうか、だからあのバーが見つからなかったのだ。幼稚な解釈も不思議と腑に落ちた。それは以前に感じた寂しさであるとか、辛さが綺麗に心から剥がれ落ちていて、幸恵や朝美に戯けていた正道が帰ってきた証拠でもある。束の間の奇跡で輝きを取り戻し、正道は改めて生きる意欲を取り戻していた。そう、既に電話が繋がらなくなった今でも。

_____「急に呼び出してすいません。暫く日本を離れようかと思ってまして」
ハンドルを握ったまま隣の老女に話しかける正道の口調に、老女は呆れた様子だった。
「貴方の性格を知っている私だから許される事ね。順序を踏まない男はモテないのよ」
「興味のある歳でもないですから。お宅の頑固爺さんとは違いますしね」
悪気があって言っている訳ではないのは長年の付き合いからお互いに分かっていた。再会を喜び合う儀式のようなものだ。
「懐かしいわね。子供みたいな眼をして土遊びに行くなんて。大学で初めてあなたの事を見た時を思い出すわ。あれは援助金の会議の時だったかしら」
正道の横顔から見える真っ直ぐな眼差しを老女は喜んでいた。
「そんな気になれる事が有ったんですよ」

正道がこの場所に来るのは二年振りだった。その二年という期間は彼が生きる気力を無くし始めた期間でもある。それまでは毎年この場所に来ていた。目印の青いスカーフがあの木から無くなってしまわない様に、二人の墓参りの後に来ていたのである。墓石を洗い、仏花を備える一連の行動と同じ意味合いで、この島に来てスカーフの手入れをしてきた。いつもと違う目的でこの島に来たのは初めての事だった。
「少しここから歩きますが、杖の代わりに手を引きますか」
「有難う。でも大丈夫よ。こう見えてもまだ足腰はしっかりしているんですから」
右手に持ったスコップを楽しげに振り回す正道を見て、老女は再度呆れながらも嬉しくもあった。

「少しだけ後ろを向いていてくれませんか。もしかしたら見られたくない顔をしてしまうかも知れない」
正道がその物から視線を外さず、老女に伝えると、老女は深く問い詰める事なく海岸に視線を移す。凪いだ海は緩やかに青と白を混ぜている。暫く水平線を眺めて居ると、背後から” カコっ ”と蓋を外す音が聴こえた。正道の表情を知らせる音が聴こえてくるのではと、老女は慌てて耳を塞いだ。見て欲しくないという正道の気持ちを尊重した行為だ。さらに気を使ってこの場所から離れようとしたところ、躓きかけてしまい、思わず両手を耳から離してしまった。
その瞬間、少し震えた声で ” おめでとう。きっと君は幸せになれるよ ” と呟いた正道の声が聴こえた。

_____「それで、どのくらい預かれば良いのかしら?ずっとでも構わないけど」
まだ涙ぐむ眼を見ないでいてくれる老女の気持ちが嬉しかった。そんな彼女だからこそ、長い関係を保っていられるのだろう。
「ダメですよ、里親に出すつもりなんてありませんから。……半年程で帰ってくるつもりです」
老女は期間など本当はどうでも良かった。なにより、また自分の事を頼ってくれる事が嬉しかった。
「研究も大事だけど、次回作を待っているファンもいる事も忘れないで頂戴ね」
「あれは……戯れで書いたものですし、あれ一作で書き尽くしてしまいましたから」
このやり取りも長い間続いているお決まりの一節だ。
「少なくてもファンが二人もいるのよ。私、今でもあの言葉が好きなの。” 今日も良い空と海だ。神様は機嫌が良いらしい ” 」
正道が考古学の道に戻る覚悟を示す為に、若い時に書いた灯台守の話を、老女は今でも得意気に話す。以前はそれが重く感じる事もあったが、今は鼻先をくすぐられる思いだ。
「そのファンの一人が今度お見合いをするのよ」
胸の奥がドンと丸太が打った様に響いた。
「そんな歳ですか、幸人君も。相手はどんな幸福な女性なんです?」
まさか、そんな奇跡まで有る筈がない。ハンドルを握る手が落ち着かなくなる。
「旧華族の令嬢様ですって。本人は気乗りしてないから、きっと今回も纏まらないわね」
それもそうだ。そうそう都合の良い奇跡がある訳はない。少し期待した自分もまだ青いのだなと、ハンドルを広く持ち直した。
「大丈夫ですよ。彼ならきっと素敵な女性と出逢います。いや、絶対にね」

_____「貴方が作家に戻らないと言うなら諦めるわ。でもその代わり一つだけ教えてくれないかしら。あの箱、何が入っていたの?」
見ないと言っていたのに、やはり抜け目ないのは彼女の性格か。呆れて咥えていたタバコを落としそうになった。
「箱には、何も入ってませんでしたよ」
「嘘つきね。呆れたわ」

_____「それじゃ、連れて来ますから」
駆け足でマンションのエントランスに行き、エレベーターのスイッチを押す。暫く経っても最上階に居る事を示すランプが動かない。
「仕方が無い。階段で行くか」
気持ちはまだ若いつもりだったが、膝の痛みを覚えてから運動と呼べる事は無意識に控えていた。それでなくても陰鬱とした靄に包まれていたのだから、若かりし頃と同じ様に階段を跳ね上がる事などもう何年も無かった。それがどうだ。自分でも階段で行くと呟いた事に驚いてしまった。しかし衰えた体力は感情としっかり剥離していて、三階を登り終える頃には虫の息になっていた。
部屋の前に立ち、ポケットから鍵を取り出す時、ふと、向こう側のこの部屋には誰が住んでいるのか考えた。朝美の世界には僕はいない。ならばこの部屋の住人は中年なのか、それとも美しい女性なのか。下らない事に興味が湧く様になったのも、正道らしくなった証拠だ。
鍵穴に差し込む前からドアの向こうに彼が居るのが分かる。
鍵尻尾をピンと立てて、正道の帰りを待っているのだ。
少しだけ、もう少しだけこの時間を味わおう。明日には日本を離れてまた海外で発掘作業だ。だからもう少しだけこの鍵を開けるのを躊躇ってみよう。
ゆっくり帰宅の瞬間を味わい、ドアを開けると案の定尻尾を立てた彼が出迎えてくれた。

「ただいま、センベエ」

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