電話

11

都電の揺れを一番右後ろの席で感じながら車内を見渡すと、決して明るい表情ではない、仕事で疲れきった帰宅者達が目に付く。父も、今私が見ている光景を眺めているのだろうか。
耳に当てたままの携帯から聴こえてくる音が、一緒に居る事を実感させてくれる。停車駅に止まる度に聞こえるブザーや車内アナウンス。異質な時間を過ごしているのだろうが、聴こえてくる音全てが、私に取っては何故か優しい。
「さっき言うの忘れたけど、王子駅で降りるよ」
か細く潜めた声で降りる駅を指示された。

「もう少し時間あるかい?君と一緒に行きたかった所があるんだ」
都電荒川線に乗る様に指示され、池袋から向原の駅まで二人で歩いた。正確には私も父 一人だけなんだろうけど。
一緒に居るけど一緒に居ない。不思議なデートがいつの間にか始まっていた。なんとなく横並びの席に座った。丁度二人分空いていたからだ。実際に隣にはいないので、意味の無い事だが、父と二人で乗っている感覚が強かったから自然にそうしたんだろう。
都電を降りるか降りないかという所でずっと黙っていた父から話しかけて来た。
「結構時間掛かるんだな。随分と乗っていた気がするよ」
「二十分ぐらいしか乗ってないじゃない?近い方じゃないのかな」
「それだけ君と喋りたくてしょうがないって事だよ」
二十二年間。本来両親と交わす筈だった沢山の会話は、予期せず断ち切られてしまい、以後ずっと私の憧れになった。絵本や映画、漫画の中で見る事が出来る空想世界よりも、私に取っては非現実的で、ほうきに跨って飛ぶ事よりも憧れが強かった。それに比べれば二十分ぐらい、大した時間ではないのだ。

「この坂を少し登ると左側に階段があるだろ?そこを登ろう」
この近くに住んでいる人にも馴染みがある道なのだろうか、まだまばらではあるが同じ経路を辿っている人が多い。
「この飛鳥山公園にはね、実は昔一度だけ君を連れてきた事があるんだ。覚えていないかも知れないがね」
「丁度桜が綺麗な時期でね。僕はここの公園の桜が好きだったんだ。それを君と幸恵に見せたくて三人で来たんだよ」
もしあの事故が無ければ、今でも三人でここに来ていたかも知れない。いや、きっと来ていただろう。
「もう少し先なんだが……。うん……多分この辺だよ」
なんの変哲もない広場に差し掛かった辺りで父の足音が止まった。
「痕跡は何も無いがね、以前ここにはスカイラウンジと呼ばれる展望タワーが有ったんだ。これが結構高くてね。その展望室から桜を見ていたんだ。君はケラケラと可愛い笑い声を出していたなぁ。分かりづらいけど、そこの大きな木の丁度前さ」
「親馬鹿なんだろうけど、その時の君は見事なぷくぷくしたリンゴほっぺでね。ただでさえ赤いのに、景色に興奮したのか、ゆっくりと回転するラウンジに驚いたのか分からないが、顔全体が紅潮していってね。楽しかったんだろうなぁ」
「私がリンゴほっぺ?信じられない。血色が悪いなんて言われてたぐらいなのに」
「本当さ。相当興奮したんだと思うよ。その証拠に治りかけていたおねしょ癖がその日に限って再発したんだから」
「……。そのデリカシーの無さ、良くお母さん我慢出来てたね」
ああ、なんてたわいも無く、不自然で自然なんだ。異質なのに違和感が無くなって行く。許されるならこの時間に溶け込んでしまいたい。
でも黒い不安がそれを素直に認めてくれないんだ。きっとそれは父も感じている筈だ。いや、感じていて欲しいんだ。
「お父さん、少し歩こ」
池袋から向原に歩いている時も、都電の中にいる時も嫌な予感は浮かんでいた。悪い癖だ。
「なあ、朝美。僕らは何故、またこうやって話す事が出来たんだろうか」
「エヴェレットに行った事が何か関係しているのは間違いがないだろう。だけど、こうなってしまった根本の理由が絶対ある筈なんだ。説明も付かない事が起きているという事しか分からないが、それに」
「もうやめよ。いいんじゃない?理由なんかどうだって」
「だが、腑に落ちないところも」
「お父さんと話せた。それだけで充分だよ」

それ以上掘り下げてしまうのが怖かった。せっかく起きた奇跡的な時間が壊れてしまうのも、母とは電話が繋がらない理由が分かってしまいそうなのも。
王子駅に戻るまで父はずっと喋り通しだった。私が作ってしまった気まずい空気を、少しでも和まそうと気を使っているのだ。
出来る事ならこの時間を終わらせたくなかった。私の部屋にも来てもらいたいが、それは今の状況では叶いそうに無いのだ。
お互いの時間は平行して進んではいるが、電話で話す以外に干渉する事が出来ないのだ。
だからこちら側の父の部屋はきっと違う人が住んでいるだろうし、父の世界では私の部屋に私は住んでいない。
あの事故が起きた日を境に、時間と事実が分岐してしまったのだろう。私しか生き残っていない世界と、父だけが生き延びた世界に。
私の世界では母はほぼ即死だったと聞かされた。父の世界では搬送された病院で息を引き取ったと言っていたが、もし事故が起きる直前まで私達の時間が分かれておらず、同じだったとしたら、父の世界も母が一番最初に亡くなっている可能性が高い。
私と父だけが繋がっている理由がおのずと見えてきてしまう。
「今駅員に聞いてみたが、まだ終電は間に合いそうだ。名残惜しいが帰るとするか」
今時終電の時間を調べるのに駅員に聞くなんて、と言ったら ”このタイミングで電話を切ってしまって繋がら無くなったら、なんだか情けないじゃないか” なんて諭されてしまった。いつまでも電話が出来るとは思っていないのは共通の認識なのかも知れない。

「明日は少し忙しくてね。電話が出来たとしても夜になってしまうが、また話さないか」
「別にいつでも掛けてきていいよ。私だって掛けるし」
電話を切る直前の父の声が本当に温かく感じた。これで充分なんだ。これ以上望んでしまったら、きっと良くない事が起きる。だから、今はこのままで良い。敢えて名残惜しさを父には見せず電話を切ったのは、そうしていないと自分が自分でなくなりそうだったからだ。

_____「おはようアサミ。欠勤なんて珍しいじゃん。もう体調は大丈夫なの?」
キョウコの顔を見てようやく日常に戻って来たのだと認識できた。そこまで深い関係ではないのに、キョウコから接してくれるとホッとしてしまうのは何故だろうか。
売り場に立っていても、まだ昨日の事ばかり考えてしまう。それもそうだろう。まるでおとぎ話の主人公しか経験できない、奇跡的な時間を過ごせたのだから。
「ねぇ、アサミ。ねぇってば」
キョウコの声で商品整理をしていた手が止まっていた事に初めて気づいた。
「もう、本当に大丈夫?……また来てるよ。あなたの常連さん」
振り返ると子供の様な、満面の笑みを浮かべたタエさんが私に手招きしていた。
「こんにちはタエさん。一月に二回も来るなんて、珍しいですね。今日は何をお探しですか?」
「この前、あなたに会いたくて走ってきたけど、私とても良いアイディアを思いついたの」
「私、あなたに会えるのは一月に一回ぐらいでしょ?それはとても楽しい事なのだけれど、あなたとずっと一緒に居られれば、きっともっと毎日が楽しくなるんじゃないかって」
タエさんが何を伝えたいのか、すぐに分からなかった。そして私と私の世界が徐々に変わり始めている事にも、まだ気が付いていなかった。

「まだ分からないかしら。あなたと私が家族になれば良いのよ」

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