海

16

父と不思議な再会を果たしたのも必然なんだ。タエさんと幸人さんに出逢えたのも必然なんだ。理屈で理解出来ない何かを今、きっと分かろうとしているんだ。
夢中で走っている間、周辺の時間は止まっていて、今までの道程からこれからの私を見ている様な、不思議な風景と思考の速度を感じた。それが何なのかを理解する事は、重要ではない。でも、今きっとこうして走っているのは、私が必要と感じているからであって、私が成長する為に必要な行動と時間なんだ。
二度目の別れを経験するのは辛すぎるし、正直に言えばもっと甘えたかった。お帰りなさいなんて言える状況でもないし、父が苦悩した日々も、私が味わった日々も、私の知らない父の近況も、もっと話せれば良かった。
でも、それはきっと与えられた状況に甘えているだけで、あのまま電話が繋がっていたとしても私は何も変わらなかった気がする。分かりかけている何かがそうだと教えてくれるんだ。
大通りに出たタイミングで、空車のタクシーが目に入った。躊躇する事なく手を上げて止め、クレジットカードが使えるか確かめると行き先を告げる。運転手は気の良さそうな中年男性だ。そろそろ町全体が眠りにつこうとする時間、しかも住宅街で客を拾うのが珍しいのか、ルームミラーでちらちらとこちらを伺っている。何か言いたげだったが、私にはそこまでの余裕が無かった。これから自殺でもするのではと思われているんだろうか。
カバンに入れた本を取り出し、もう一度最初から開く。暗い車内ではろくに文字を追う事も出来ない。流れる街灯の灯りが、冒頭の一文を舐める様に照らした。

” 今日も良い空と海だ。神様は機嫌が良いらしい ”

_____「良い空と海の色だね。神様は機嫌が良いみたいだよ」
朝美が駄々を捏ねたせいで来るはずの無かった海辺に立った正道は、まだ朝美の機嫌が悪いと思っているのか、運転で凝り固まった背中を伸ばしながらそう嘯いた。
「神様が機嫌が良いなんて、なんで分かるの?お父さんは神様とお友達なの?」
遠浅の凪いだ海を見て、朝美はとっくに機嫌を直している。後部座席に乗っていた幸恵は憮然としながらも、海を見て満更でもないようだった。
「穏やかな日というのは、神様もきっと穏やかな気持ちなんだよ。そんな日に海に行きたくなるなんて、君の方が神様の友達に相応しいと思うけどね。そうだろ、幸恵?」
几帳面な幸恵は組み立てた予定を壊されるのが嫌いだった。二人が結婚する前にも何度か喧嘩をした事がある。デート先ですぐ違う物に興味を惹かれる正道のせいだった。
「そうね、朝美はね。貴方もその気紛れが治れば神様とお友達になれるんじゃない?」
わざと意地が悪そうに口角を上げて笑う幸恵を見上げた朝美は、正道と幸恵の手を握り締めてこう言った。
「ケンカするなら帰る」
勿論本気ではない。幸恵の真似をして右の口角を上げている。朝美の真似が余りにも似ているものだから二人は大笑いしてしまった。

_____「この小さい島はね、関東大震災の時に出来た陸繋島なんだ」
周囲一キロ弱の小さな島を眺めながら正道が呟いた。朝美は気にも留めず、波打ち際に打ち上げられた海藻を物珍しそうに、流木で突ついている。
「そんな事言っても朝美は興味持たないわよ」
「そうかなぁ。僕は子供の頃から興味を持ったけど」
「貴方は変わっているのよ」

「ねぇ、予約したお店の事、忘れてないわよね?」
砂浜から島の中央部に向かって行く二人を見て幸恵が不安になる。朝美の誕生日だからと奮発して高級レストランを予約した。時間に間に合わなければレストランにも迷惑を掛けてしまうし、遅れていって料理を堪能できる程幸恵の神経は図太くない。
「もう少ししたらこの島を一周するから。そうしたら帰ろうか」
初めは外周を回ろうと朝美が言い出したのだが、万が一怪我でもしたらと、幸恵が反対した。外周に比べて中央部はある程度舗装されている道もあるし、切り立った岩場もない。それが朝美にとって不満だったらしく、機嫌がまた悪くなっていた。
「朝美、ここに来れて良かったかい?」
繋いだ手から朝美の不満が伝わってくる。朝美はきっと僕に似たんだろうな。僕だって子供の頃は危ない事もしたがったし。冒険みたいで心躍るものな。正道は朝美の不満を汲み取っているつもりだった。
「そうだ、良い事を思いついた」
朝美の顔の高さまでしゃがみ込むと正道は何やら耳打ちを始めた。幸恵はその姿を見ると、親子と言うより兄妹の様に見えて仕方がなかった。いつも私には内緒でイタズラばかりするんだもの。私は朝美の母ではあるけど、貴方の保護者ではないのよ。呆れてはいるが、それが幸恵にとっては幸せを感じる風景でもあった。
「うん!やってみたい!」
「じゃあ取って来るね。お母さんとここで待ってるんだよ」
あの表情。本当子供みたい。大学で彼を初めて見た時と一緒ね。教授に何やら質問していた時だろうか、彼の眼はキラキラと輝いていて、冒険譚を聞かされている子供の様だった。自分の好きなものにあんなに打ち込めるなんて。そんな純粋な表情に幸恵は心を打たれた。
小脇に何かを抱えて戻って来ると、そのまま幸恵の前を通り過ぎ、獣道の奥まで朝美と歩いて行ってしまった。
「ちょっと。私は仲間外れなの?」
「だってお母さんに見つかったら怒られるもの」
朝美は幸恵の真似に味をしめたのか、わざとらしく口角を上げている。正道は手に持ったスコップで地面を指す。
「ここが良いと思うよ。後で目印を付けて、この場所を忘れない様にしないとね」
「あなたたちの悪巧みはそういう事ね。私にも参加させてもらう権利はあるわね」
「怒る?怒らない?」
「あら、貴方そんなもの持って来てたの?それ一枚しかないのよ?」
「ネガは有るんだ。また現像すれば良いじゃないか」
「朝美はこれ!バイバイ、熊さん。おやすみなさい」
「もう。それお昼に買ったばかりじゃないの」
「君はどうするんだい?」
「これじゃないと釣り合いが取れないわね」
「いや、それはどうだろうか。そこまで高くは無かったけども……」
「あら、高くないならいいんじゃないかしら?それに……またいつか、此処に来るんでしょ?」

「ああ。またいつか、三人で来よう。その時は朝美は何歳になっているかな?」

_____「お客さん、もう少しで着くけども、ここら辺で良いのかい?」
本を開いたまま、いつの間にか眠りに落ちていたのか、気がついたら景色が大分変わっていた。
「多分、もう少し先だと思うんですが……。あ、そこの看板!そこで大丈夫です」
「はいはい。じゃあカードだったね?……こんな時間じゃ帰るのも大変だろうから、良けりゃ待ってるけど」
何時になるか分からないので、申し出は丁寧に断った。訝しげなテールランプを見送ると、頼りになる灯りが殆どなくなった。携帯のライトで看板を照らす。
” 沖ノ島 ”
改めて名前を確認すると、胸の奥が痛くなる。この場所が家族最後の想い出。心の奥にある井戸からは、黒いものが最初に這いずり出ようとしてくる。嗚咽を抑えながら、必死に井戸に蓋をする。

遠浅の凪いだ海はあの頃と何も変わっていなかった。月に照らされて、鈍色の波がユラユラと神秘的に輝いている。沖ノ島の入り口から二百メートルは歩くと島の中央部に向かう道が木々に囲まれてぽっかり口を開いている。再度携帯のライトを点けるが、幾分足元しか照らされてないので頼りが無い。こんなとこ普段だったら絶対一人で来れる訳が無い。木々が風に揺られて葉が擦れ合う音や、昆虫が出していると思われる音が響く度に肩をすくめた。都心の生活音が全くしない状況だと、ここでは自分が異質な存在だと思わせる。
中央部に向こう途中で公衆トイレが目に入る。あの時もここに有ったのは覚えている。記憶がはっきりしてきたせいか、闇夜の恐怖が薄らいできた。
何処か脇道に入った筈なんだけど、それが何処だったか覚えていない。父に手を引かれるがままだったし、目に入るもの全て楽しくて仕方がなかった。目印を付けたとは言え、もう二十年以上も前だ。とっくに無くなっていてもおかしくはない。とにかく、それと思われる脇道には入っていくしかないんだけど。

_____携帯のライトはあとどれくらい持つだろうか。電池残量を見ると二十パーセントを切りそうだった。付けっ放しにしているから消耗が激しい。探し始めてから、一時間以上は経った。手探りで歩いているし、足場も不確かだから実際に感じている時間はもっと長く思える。日が登り始めるまで後二時間ぐらいか。それまで待つべきか。でもこの暗闇の中で二時間も待てる気がしない。一度戻ってコンビニでも見つけられれば、懐中電灯か携帯バッテリーも買えるのだけど、この近くに来るまで眠ってしまっていたのは失敗だった。有るか分からないコンビニの為に戻るのも躊躇われる。それに懐中電灯があったとしても、あの場所が見つかるとは限らない。心が折れそうだ。
思い出せ。絶対何か記憶に残る様な事が有った筈なんだ。この辺りには間違いがない筈なんだ。私と父が先導して母が後から着いてきた。海岸線を避けてなるべく道の穏やかな場所を歩いていた。少し開けたところで父が車に戻ったんだ。その時父は何を持ってきたっけ?
右手にはスコップ、左脇にはお菓子の缶箱。ラングドシャが沢山入っていた金色の箱だ。その中に……。そうだ、青いスカーフだ。父が目印をつける為にスカーフも持ってきたんだ。そのスカーフを確か木を登って高い場所に結んでいた。誰かに取られてしまわない様になるべく目立たない、私達三人しか分からなそうな場所に。
お菓子の缶箱を埋めた後に父が結び付ける様子を母と見上げた場所……その時確か、私は石段の様な場所に腰掛けていた。そこだ。その場所を見つければ良いんだ。
携帯の電池は残り十パーセントを切っている。これ以上点けっぱなしにしておけない。暗闇に溶け込む覚悟をしないと……。
あの時はもっとこの場所を広く感じた。身長が伸びたせいか、少しこの島が狭く感じていた。抵抗はあったけど、頼りになる明るさもないし、足元がより一層不安になったので、しゃがんでみたり道端に座ってみたりして、なるべく両手も地面につきながら子供の頃の視線になって石段を探した。
通りにくそうな獣道に入ると顔に枝がピシピシと当たる。あの時もこんな感じだったろうか。手が汚れるのも気にせず、這い蹲りながら石段を探していると、明らかに土の感触とは違う、硬いものに触れた。もしかしたら。座れそうかどうか、手で確かめてから腰を石段に降ろす。あの時と同じ様に木を見上げる。周りに該当しそうな太めの木が幾つかあった。その中で一番太いと思われる木にめぼしを付けて、ライトを照らす。遠くの方を照らす程、灯りは頼りがなくなる。残りの電池残量は七パーセントまで減っていた。高い場所の枝まで必死に手を伸ばして灯りを照らすと、青い切れ端が目に入った様な気がした。
ここだ。
確信はあった。もう少し確かめたいが、これ以上は電池が切れてしまう。この木の根元で間違いはないんだ。携帯の電池を温存する為に電源を切り、根元の辺りを両手で掘り起こす。でも土が硬くてとても手で掘り起こせる気がしない。太めの枝を探し、枝先でガリガリと土を削る。これなら手より幾分かマシだ。どれくらい深く埋めたのだっけ。あの時のスコップは砂山を切り崩すみたいにサクサクと、順調に穴を掘っていた。それなりに深く埋めた気がする。他に周りを見渡しても、スコップの代わりになりそうな物はない。
削り進めて行くうちに枝の方も痛んで行き、初めの固さを失っている。それと同時に土の方も大分掘りやすい固さになってきた。上の方が踏みしめられてたせいなのだろうか。あまり人が来るとは思えない場所なのだが。
手首と肘の間ぐらいまで掘り進めた辺りで、土とは違う感触を枝先に感じた。
あった。
微かに見えた金色の箱。枝を放り投げて土を手で掻き分ける。徐々にあらわになっていく箱に胸が高鳴る。
掘り起こした缶箱はサビにまみれていて、蓋を固くて閉ざしている。指先を引っ掛けて蓋を剥がそうとしてもびくともしない。少し細めの小枝を、缶蓋のくぼみに引っ掛け、石を枝尻に叩きつける。少しずつ蓋が剥がされ、トドメに勢い良く石を枝尻に当てると蓋が勢い良く剥がれた。

「そうだったよね、そうだったんだよね」

あの時、この場所でどんな時間を過ごしたか。どんな思いで三人がここに居たか。
私は事故のせいで、その時の事を忘れていた。心の奥に閉ざしてしまっていた。
忘れていた大切な事が、一気に箱の中から飛び出してきた。

” なんでイヤリングなんて入れるのさ ”
” だって、二人とも大切なもの入れているじゃない。そんなのズルイわ。だから私も ”

” 朝美、本当クマちゃん入れちゃっていいの? ”
” だってお父さんもお母さんも大切なもの入れてるんだもん。アサミ、クマちゃん大切だもん! ”

” この写真、いつも持っていたの? ”
” そりゃそうさ。朝美が産まれた歴史的な日の写真なんだ。僕ら、家族が出来た日なんだよ ”

私は馬鹿だった。幸せをなんなのか知っていたんじゃないか。私が産まれた時から、ずっと幸せに包まれていたんじゃないか。
愛情だって、両親の優しさだって、本当はずっと、ずっと知っていたんじゃないか。
泥だらけの手で涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭った。拭っても拭ってもどんどん涙が溢れて来る。氷解した心が、熱を帯びて来るのを感じる。閉じ込めた心が解き放たれる音が聞こえてくる。
写真の真ん中には出産直後の私、両脇には両親。モノクロの写真なのにとても色鮮やかに見える。

「また、三人でここに来れたね」
海沿いに出ると日が登り始めていた。澄んだ森林の香りと、海風が混ざった神聖な風が吹く。
良い空になりそうだ。きっと今日も海は穏やかだろう。
これからもきっと、ずっと。
幸人さんから借りた本と、缶箱を胸に抱えて、日が登りきるのをずっと見ていた。

私は今日、幸せを思い出した。

続く

Photo by zinro

次回最終回 2月27日更新

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