電話

10

店内のアナウンスが次第に遠ざかり、周りの景色が徐々に視界から消えて行く。
景色、という概念すら宇宙の彼方に行ってしまったかの様に、瞼を開いたまま真っ白な世界に飛び込んでしまったみたいだ。
”お父さん”
独りになってから、二度と言う事は無いと思っていた。
自分の境遇を呪い、人から見れば捻くれた性格にも育ち、幸せなんて私には存在しないものだと決めつけていた。
いつから素直になれなくなったのだろう。素直である必要もないと思っていた。心の周りは冷たい壁で閉ざしたまま、じっとしているのが心地良いと感じていた。それが、一言お父さんと口に出しただけで、心がグルっと裏返ってしまったかのように、唐突に自分が変わって行く実感が湧いた。それが一体何なのか理解は出来ないし、具体的に何が変わったのかまだ分からない。けれど、言いようの無い気持ち良さも感じる。
「……取り敢えずここを出ようか」
受話口から聴こえてきた声と同時に店内の喧騒も戻ってきた。どれくらいこの場所に立っていたか分からないぐらい、今の状況に身を委ねてしまっていた。
「信号を渡って少し行くと公園があるんだ。そこならここより静かだし、少し座って話さないか」
携帯を耳に当てたまま、五分程歩き、灰皿の横にある公園のベンチに座る。同時に受話口からライターに火を付ける音が聴こえてくる。
「まだマルボロメンソールライト?」
「覚えてくれていたんだね。一度も銘柄は変えていないよ。ずっとこれだ」
戸惑いの色が見えていた声とは違って、弾んだ声色になっていた。
「一本吸い終わるまでちょっと待っててくれないか。何を話したらいいか整理がつかないんでね」
周りには会社帰りのサラリーマンや、これから遊びに繰り出すのであろう若者やカップルがいる。何気ない日常の光景であり、誰もが当たり前の様に今の時間を過ごしている。この奇跡に気がついているのは私だけなんだ。そう思うと少し優越感に浸れる。
「……マスターの話をしたのはおぼえているね?まるで占い師の様に僕の事を」
「言い当てたんでしょ?」
「……そう。何も話していないのにね。ただ、象徴的に話すものだから占い師の様だと思ったんだ。酒に酔っていたし、それを言い当てられたと思ったのは少し冷静では無かったんじゃないかと思った時もあったよ」

”あなたの大切な魂は二つあったが、唐突な黒い塊に襲われて亡くなってしまったのですね”
「そうマスターは切り出した。人とは言ってはいないが数は合っている。事故とは言ってはいないが、僕らの車にぶつかってきた車両は炎上して黒焦げになった。まあ、占いや予言めいた物はいつも象徴的だし具体的では無い。ただ、話術に長けていれば具体的な何かを、それとなく混ぜる事によって特定の事象と当てはめやすくは出来る。大切な魂はペットかも知れないし、黒い塊と言えば不幸を連想し易い。人は誰かに見られたく無い物や、隠している事は必ずある。それは大体明るい色のイメージではないだろ。ただ、面と向かってそんな事を言われたのが始めてというのもあり、少し楽しくなってしまったんだ。楽しくなったというのは語弊があるかも知れないが、意地悪をしたくなった。そこで僕は聞いたんだよ。僕が誰に会いたいかを」

こんな事で実感するのもどうかと思うが、やはり似ているんだなと思った。人と話していても、どこか離れた所からその人を見て冷静になっている自分がいるんだ。それはきっとこの人も同じで、受け継いだ血なんだろうな。
「電話番号を書けと言われた時は何かの営業でもされるのかと思ったさ。まあ、僕の番号なんて大して価値もないだろうし、その後に何が起こるか興味も湧いていたんだけどね。君から電話が掛かってきた時も、最初はマスターの友人か何かにからかわれているんじゃないかと、少し穿っていた。でも君の様子もおかしいし、何より似ているんだ。妻の幸恵の喋り方にね」

喋り方……勿論意識なんてしていないし、母さんがどんな喋り方かあまり良く覚えていない。でも……似ているんだ、母さんと……。
「奇跡なんて青臭いって言われた時はドキッとした。僕が初めて幸恵に告白した時に言われた台詞と同じだったからね」
思わず吹き出しそうになってしまった。どんなロマンチックな告白をしたのだろうか。
「なんて告白したのか聞いてもいい?」
「僕達が出会った場所は話したと思うけど、覚えているかな」
きっと周りにいる人は私の事を見て、彼氏と別れ話でもしているのかと思われているんじゃないだろうか。涙を止めようとしても溢れ続けていて止まらなくて、それでも頑張って平静を装いたいから、様子がおかしな事になっているに違いない。
「大学でしょ?お母さん自慢してたもの。人生で初めて告白された場所だって」
「それは僕も聞いてないな。中学の頃からずっとモテていたって聞いたが。それに彼女は」
「もう。わざと脱線しないで。お母さんになんて言ったの?」
「……大学のキャンバスだけで相当な人数が居るのに、この東京で僕らが知り合える確率は、それこそまさに天文学的数字になる。そんな奇跡を見過ごして良いと思う?って聞いたんだ」
「それってセンスないよ……。それでお母さんは?」
「”奇跡なんて青臭い事言わないでください。私は出会うのが必然だったと思います” って言った後に、今の君と一緒の事を言ってたよ。 ”センスないんですね” だってさ」

父の優しさを感じる。まるで隣に居る様な暖かさも。子供の頃も母さんに叱られて泣いた時、いつもつまらない冗談で私を笑わせようとしてくれてた。本当につまらなかったから、意味が分からなくて泣き止んだのを、自分の話がウケたと勘違いしていたっけ。
今もきっと私が泣いているのに気づいたのか、喜劇俳優の様な喋り方になっている。精一杯身振り手振りも添えているだろう。中年の男性が、夜の公園で必死になって電話越しの相手を笑わせようとしているなんて、そっちの方が面白いのに。

「でもあったんだよ、奇跡は。あの事故が切っ掛けで、僕らは違う世界で生きているんだ。それが何かの拍子で、繋がったんだよ」

どうしてだろうか。あれだけ言いたい事が沢山あったのに、伝えたい事がすぐ出てこない。
「……聴こえているかい?……朝美?」
そうか。満たされているんだ。今は声が聴こえているだけで、とても嬉しいんだ。
二人ともエヴェレットの事なんてすっかり忘れてしまい、異質な再会をただ素直に喜びあった。

それもそうなんだろう。この時の私は、この電話が繋がらなくなる時が来るなんて、思ってもいなかったんだから。

続く
次回1月16日更新

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