アイキャッチ かき氷

月に約一度、三畑幾良が甘味にまつわる掌編小説を書いていきます。

今月の甘味は「かき氷」です。

*****

「けんちゃん、どーっちだ」と、小さな私に向かって言うのが、祖母のお得意だった。
何か小さな物を片手の中に握りこんで両手を一度背中に回して、それから握った両手をぐっと前に突き出す。その中に隠されているのは、飴だったり百円玉だったり色々だった。
握った両手を突き出している時の祖母の表情は、嬉しそうでもあり何か企んでいるようでもあり、全く読み取れなかった。私が祖母の右手に恐る恐る触れると、祖母の口の端が釣り上がる。それを見てまた躊躇って左手を指さすと、眉をぐっと上げて「へえ?」と言うのだ。その時の祖母は、私には計り知れないものに思えた。
しかし、宝物がどちらの手に隠されているのかを当てることが出来ても出来なくても、祖母はにやりと笑って最終的にはそれを私にくれた。

それは、私が中学三年生の夏のことだった。
古びた祖母の家で唯一クーラーがある茶の間に寝そべり、私は一人、高校野球をテレビで見ていた。その夏、テレビの中でバットを振る年上の少年達は、私にとって特別なものに見えた。
「この暑い中で、この子らもご苦労さんなことやなあ」
食い入るようにテレビを見ていた私は、三角に切ったスイカを持った祖母がやってきたのに気付かなかった。
テレビの中の甲子園球場はかんかんに日が照っていて、真っ黒な顔をした東京都のスラッガーが素振りをしているところが映し出されていた。この人は高校二年生だから自分より二歳年上だ。大会中の打率は二割と少し。今投げている島根県のピッチャーは三年生でキレのいいスライダーが持ち味だ。ピッチャーのフォームはどうだ。球種は何がある。球速は。
「スイカ、塩かけて食べえよ」
座卓の上にスイカの皿を置いて、祖母は私が起き上がるより先にスイカを一つ手にとっていた。
程よく冷えたスイカをかじっている間もテレビから目を離さない私を、祖母は咎めなかった。
「野球って、不思議やねえ」
「何が?」
「あんな小さいボールを、あんな細いバットで、なんで打てるんやろ。ピッチャーの方が絶対に簡単に見えるのにねえ」
「簡単やないで」
私は思わず苦笑した。私はその時、通っていた公立中学野球部の三年生エースの看板を下ろしてからまだ間もなかった。夏の県大会ベスト四という例年より少し良い結果を後に残して、久し振りに、野球をしない日々というものを過ごしていた。
「そうなん? ピッチャーは好きなところに投げたらええだけやんか」
祖母があまりに無邪気にとんでもないことを言うので、逆に腹も立たなかった。
「好きなところとちゃうよ。打てるけど打たれんところに、打たれんように投げるんや」
ただそれだけのために、毎日毎日、投げて投げて投げまくり、走って筋トレしてまた投げる。祖母の言う「あんな細い」バットを避けるために、私は全てを捧げていた。
テレビの中では島根県のピッチャーが勝ち越しのランナーを二塁に置いていて、キャッチャーがマウンドに上がってきているところだった。もう八回の裏だが、まだワンナウトで東京都の次の打者は三番だ。自分なら何を投げる。どうする。
「けんちゃんもああして投げたんやねえ」
「まあね」
本当は、中学と高校では全然違うだろうし軟式と硬式も違う。
だが、あの状況には何度も立ったことがある。県大会で握ったボールのざらざらとした表面が、今にも指先に触れるようだった。
画面の中の試合はと言えば、外野に飛べばほぼ確実に点が入る。三番をしのいでも、次に来るのは当然四番だ。苦しいだろうな。だが。
「あれ、あの子、笑うとるわ」
祖母の言葉に、テレビの画面を凝視した。マウンドを降りていくキャッチャーを見送るピッチャーは確かに笑っていた。嬉しくてたまらないかのように、真っ黒な顔から白い歯が溢れていた。
「ほんまや」
キャッチャーが座ると、ピッチャーの顔は引き締まる。
島根県のピッチャーは結局、東京都の三番と四番をぴしゃりと抑えた。私と祖母は、お互いに何も言わずにそれを見ていた。
「あれに出たいんか?」
島根のナインがベンチへ駆け足で戻っているのを見ている私に、祖母は言った。何気ない口調だったが、私にはそれが本題だと分かっていた。

その少し前から、私には県外の高校への野球留学の話が出ていた。その県では三年に一回くらいの割合で甲子園に出ている高校だった。
「あの高校に行って、お前がレギュラーとれるかは分からんで」と野球部の顧問は言った。
「野球もええけど、ちゃんと勉強して大学に行く方がええんちゃうの」というのが母の意見だった。
県内ベスト四の中学のエース。そこそこに良い球を放るが驚くほどではない。それが私だったことは、私が誰よりも知っていた。
だから、その高校から誘いが来た時には皆が驚いたし、周りの大人達は少し首を傾げて、三十年前に一度だけ甲子園に出たことのある地元の高校への進学を勧めた。
「野球部は夏休みも帰って来られへんやろ。ずっと寮で、あんた大丈夫なんか?」
母の言うことはもっともに思えた。満塁を背負ってキャッチャーのサインを見た時の方が、ずっと簡単に首を振る方向を決められた。
「おばあちゃんも、あんたに会えんようになると寂しいやろしなあ」
静かに言った母の言葉が、何故か耳から離れなかった。

祖母の言葉に何も答えられずにいると、祖母は黙って立ち上がり、台所へ向かった。
九回の島根県の攻撃が始まった。
台所からは何やら騒がしい音がしている。と思ったらそれはすぐに止んで、盆を持った祖母が戻ってきた。
「デザートや」
言われて見ると盆の上には、ガラスで出来た全く同じ二つの器が乗っており、それぞれにかき氷がこんもりと盛られていた。色はついていない。シロップをかけていないのだろうかと思った。
「今スイカ食べたやん」
「別腹やろ」
「いつもは、お腹壊すでって言うくせに」
文句を言いながらも片方の器に手を伸ばす私に、祖母は真剣な声で言った。
「けんちゃん、どーっちだ?」
私は思わず手を止めて祖母の顔を見た。
握った両手を私の前に突きつけた時と同じように、祖母の表情は読めなかった。
「どっちだって、何が?」
「アタリなら、けんちゃんは甲子園に出るんや。ハズレなら出えへん」
「何やそれ」
かき氷にアタリとハズレがあるのか。そんな無茶な。そう思ったが、笑うことが出来なかった。私は二つのかき氷を凝視した。
「はよ決めな、とけるで」
祖母の口元が釣り上がっていた。私は銀色のスプーンだけを握って、二つとも同じようにしか見えない真っ白のかき氷を見つめていた。
甲子園に出る方と、出ない方。
野球留学する方と、しない方。
あのマウンドに立つ方と、立たない方。
それを、かき氷で決めると言うのか。それで良いのか。いや、良いわけはないのだけど、早くしないとかき氷がとけてしまう。
顧問やチームメイトの顔と母の声とまでもが思い出された。時間にすればほんの一分かそこらだっただろうが、私は途方に暮れた。
突然、テレビから沸き立つような歓声が聞こえた。反射的に画面を見ると、島根県の八番が勝ち越しのツーベースヒットを放っていた。背番号一番の打順九番が、マウンドで見せたのと同じ笑顔でバッターボックスに向かっている。
私はおおっと歓声をあげ、それから、祖母の言ったことなど忘れたようなふりをして、片方の器をとった。たっぷりとすくって口に入れると、ただの白い氷のように見えたそれは、甘かった。透明のシロップがかかっていたのである。
「ばあちゃん、甘い方ってアタリ?」
私がそう聞くと、祖母はにいっと笑ってまた台所へ行き、真っ赤なシロップを持って戻ってきた。盆に残った方の氷に赤いシロップをかけて、うまそうに食べる。
「けんちゃんは、よう勝てる子や」
たったそれだけの言葉は、その後の三年間と更にその後の長い間、私を支え続けた。
ただ甘いだけのかき氷は、信じられないほどにうまかった。

「父さん、何これ?」
その日から数十年が経った今、私は高校三年生の娘の前に二つの白いかき氷を置いている。
「さあ、どーっちだ?」
娘が高校卒業後にヨーロッパへの留学を考えているという話を、私は妻から聞いていた。
「語学留学なら良いと思うんだけど、バレエの留学でしょう。厳しいんじゃないかしら。バレエは趣味にすればいいのに」というのが妻の意見だった。
そうかもしれないな、と思わないわけではない。
野球留学した先の高校で、私は予想以上に平凡な選手だった。幸いなことに高校は春夏合わせて四回も甲子園に出たが、私はというとそのうち二回はスタンドでメガホンを握り、後の二回はなんとかベンチ入りしたものの出番はなかった。大学でも野球を続けたが二年生で肘を壊し、今ではもう、投手をやっていない人生の方がずっと長い。
甲子園に出るだけが野球ではなく、プロになるだけがバレエではないのだろう。その道で生きたいという願いは必ずしも叶わないことを私は知っているし、趣味として無理なく続けることの尊さも理解している。
しかし、私はあの夏の日の祖母を思い出さずにはいられない。
「アタリなら、お前はプリマドンナやな」
「それは歌手だって。あたしがやってるのは、バ・レ・エ」
しょうがないなあという風に、娘は苦笑する。私がその世界のことを実はほとんど何も知らないのを彼女は承知していて、ある意味で諦めている。
「早く選ばんと、とけるで」
そう、決断の時は瞬く間に逃げてしまうのだ。祖母はそれを知っていた。
娘は顔を引き締めて二つの氷を見つめた。こんなものはただの遊びだと言ってしまうことは簡単だろうに、彼女は透き通った目でガラスの器を真っ直ぐに見ていた。あんなに小さかった私の娘はいつからこんな目が出来るようになったのかと、驚きが表情に出そうになるのを辛うじてこらえる。
やがて娘は私の目を見て、白い歯を出して晴れやかに笑った。
「いっただきまーす」
彼女は自分の左手側の器をさっと取り、山盛りにすくった氷を一気に口に入れる。
そして、ぎゅっと目を閉じて眉間に皺を寄せた。
「父さん、これ」
彼女は私を睨む。
「キンとくる」
「そんなに一気に食べるからやろ」
私は思わず吹き出した。
「どうでもいいけど」
痛みは治まったらしい。娘はまた氷にスプーンを差し込んだ。
「甘い方がアタリでいいの?」
「さあな」
あの日祖母がしたように、私は台所からかき氷シロップを持ってきた。ただし、私が好きなのはメロン味だ。
残った方の氷を娘の目の前で緑に染めて、何気ない顔をして食べてみせる。
「お前は出来る。父さんは知っとる」
娘が私の顔を見ていることには気づいているが、私はあくまで素知らぬ顔でかき氷を食べる。透明なシロップと緑色のシロップを二重にかけたかき氷は、舌に絡みつくように甘かった。強烈に甘いかき氷は、しかし、あの中学三年生の夏に食べた透明な氷に負けないほどにうまかった。
あの日に祖母の食べていた真っ赤なかき氷もこれと同じように甘かったはずで、しかし同じようにうまければ良かったが、と思いながら私はまたひとさじ、氷を口へ運ぶ。
祖母の孫のそのまた娘は、甘いだけの透明なかき氷を猛烈な勢いでかきこんでいた。

*****

次回の小説掲載は9/27(日)頃を予定しています。よろしくお願いいたします。

(三畑幾良)

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