鶏

 

(前編から続く)

玄関マットの下に隠してある鍵を拾って家のドアを開けると、直樹は二階の自分の部屋へと駆け込んでいった。

ランドセルも下ろさずにベッドの掛け布団をめくる。そこにはぐるぐると巻いて丸められた、バレーボールほどの大きさのバスタオルがあった。恐る恐るといった手つきで、直樹はタオルをほどいていく。途中、巻き込んであった使い捨てのホッカイロがベッドの上にぼたりと落ちた。タオルは内側にいくほど暖かい。解ききったその中心には、小さな白い卵があった。

直樹は卵を耳にあててみた。日数を考えるともういつ生まれてもおかしくないという気がした。何かその予兆のような、殻の内側をひっかくような音が聞こえるかもしれないと思ったが、特にそれらしい音は聞こえなかった。

ランドセルを下ろし、直樹は両手で卵を包んだままベッドに仰向けになった。

〝そうだ、わざとカギをかけ忘れてくれば良かったんだ。そうすれば、誰だか分からない他人のせいにできた。ああ、何て僕は馬鹿なんだろう〟

壁に飾ってあるいくつもの昆虫標本や、机の上の顕微鏡セットをぼんやりと眺めながら直樹はそう思った。そして、溝倉のことを思い出した。

〝あいつは、確かに見たと言った。僕が卵を持ち出すところを見たんだろうか?じゃあ、なんではっきりとみんなの前でそう言わないんだろう?〟

金曜日の放課後、直樹は掃除のふりをして親鳥を巣から押しのけ、素早く卵を取った。回りに誰もいないのを確認して持ちだした。入り口の脇に置いておいたランドセルに急いで放り込むと、小屋の南京錠を掛けて立ち去った。直樹はその時のことを注意深く思い返していた。

〝あの時は緊張してたけど、確かに回りに人はいなかったはずだ。それは間違いない。見られているとすれば、二階の…音楽室からかもしれない〟

溝倉里美は直樹のクラスで唯一ピアノがひける女子だった。合唱会などの催し物がある際には音楽担任に呼び出され、個人でレッスンを受けていることもある。そして先週の金曜日も溝倉は実際に音楽室にいたのだった。

〝音楽室の窓からなら、屋根が邪魔で巣のあたりは見えないけど、入り口のところは見える。僕が何かをランドセルに入れたのは見えたけど、たぶんそれが卵かどうかは見えなかったのかもしれない。きっと、はっきり分からないから強く言えないんだろう〟

直樹はそう結論づけた。バレているわけじゃない。そう思うと、直樹は気が少し楽になった。

〝それに、べつにヒヨコが欲しいわけじゃないさ〟

家のチャイムが鳴った。

卵をベッドの上において階段を降りると、すでに三和土に立っている太志の姿があったのでぎょっとした。

「お前、家のドア開いてたぞ? 大丈夫か?」

「え? ほんと? うっかりしてた。し、閉めないと危ないよね」

「ちょっと聞きたいんだけどさ、」と太志がいつにもまして太い声で切り出した。

「溝倉が、お前が金曜の掃除の時にニワトリ小屋から何かを持ち出したのを見たって言ってきたんだけど、それ本当か?」

眉をひそめた顔でそう問われ、直樹は言葉に詰まった。

「直樹さあ、違うなら違うって言えよ? 本当なら本当だって言えよ? 俺にはな。どうなんだよ? お前ヒヨコが欲しかったのか?」

ごくりと唾を飲み込んで、直樹は両手にぐっと力を込めて言い返した。

「ち、ち、ち、違うよっ…! そんなことある訳ないじゃんか、う、嘘だよ! 溝倉のやつ、太志に言い負かされたのが悔しくて、そんな悔し紛れの嘘をついてるんだよ。あいつ負けず嫌いだからっ」

「…そうか。そうだよな。くそ、あの女ふざけやがって…」

「ふ、ふ、ふ、ふざけてるよっ…! ほんと! 本当に見ているなら学級会の時に言えばいいじゃないか。そうしなかったのは、嘘だからだよ、騙されちゃだめだ!」

「その通りだ。直樹の言うとおりだよ。なんでこんな簡単なことに気がつかなかったんだろう。下らないことで時間もらっちまったな。悪りぃ。」

「き、気にしなくていいよ。それから僕、これから塾だから」

「そうか、俺はこれから剣道。剣道面白いぜ、お前もやれよ。強くなったら月本達なんか全然大したことなくなるからさ」

「うん、お母さんがいいって言ったら、やるかも。でも僕、まずテストの点あげないと殺される」

そう言いながら直樹は両手で自分の首を絞めた。大げさにげぇげぇ舌まで出した。それを見た太志は、馬鹿じゃねーの、と吹き出した。直樹は久しぶりに太志の笑顔を見た気がした。幼稚園や低学年の頃は、毎日見ていた気がする顔だった。

「そういえば、溝倉は雛が孵ったら自分が引き取りたいって田島先生に言ってたらしいぜ。あいつん家、今じゃめずらしい農家だろ? じぶんちならニワトリになっても飼えるからってさ。それが居なくなってショックだったのかもな」

「そ、そうなんだ」

「で、月本は溝倉んちがビンボーだから食いたいだけだろって言ってさ。笑えるよな。あの後また騒ぎになったんだぜ。」

「へえ…」

「まあ、そんな下らない話いいか。じゃーな。ドア閉めて、ちゃんと鍵掛けとけよ」

「分かった」

太志は手を振って出ていった。それを見送った直樹はドアを閉めると黙って二階にあがり、塾の支度を始めた。しかし、今日は塾にいく日ではなかった。直樹もそれは分かっていた。だから、ドリルやプリントを詰め込んで膨らんだ塾のカバンは床に放り出されたままになった。ベッドの上の卵も放り出されたままだった。

直樹は本棚から一冊の大きな本を取り出した。それは、生き物の誕生を扱った中学生向けの図鑑で、ずっと昔に親戚からもらったものだった。

直樹はパラパラとページをめくり、開きグセのついているところで手を止めた。そこには、卵から雛が孵るまでの一連の流れがイラストになって説明されていた。『卵の中でニワトリの雛は黄身からこのように成長し、やがてヒヨコとして生まれてきます』。黄身から次第にヒヨコの形をとっていく、その不思議な様子は直樹の心をずっと捉えて放さなかった。

直樹は机の引き出しを探って、カッターとピンセットを取り出した。バスタオルを畳んで机の上に敷くと、ベッドの上の卵をそこに移した。時計は五時半をまわったところだった。

 

カッターの刃をだして、小さくコツコツと殻をたたいてみる。

慎重に少しずつ、込める力を大きくしていくと、ピシリと殻の割れる音がして、刃先が5ミリほど白い表面に食い込んだ。ゆっくりと引き抜いたその割れ目に今度はピンセットをぐっと突っ込んだ。何条もの新しいひび割れが走った。

ピンセットの先でひび割れた殻の端をつまんでみる。そのまま鍵を回すようにひねると卵の殻は小さく欠けた。心臓が高鳴っていた。欠片を取り去ると、後には米粒ほどの穴が空いていた。直樹は慎重に作業を繰り返し、その穴を親指の爪くらいまで広げていった。

直樹は顔を近づけて、その穴から卵の中を覗き込んだ。

雛はぐっしょりと濡れていた。小さな頭と嘴、閉じられた目がそこにあった。

〝死んでいるのかな〟

体毛の薄い、まだ出来たばかりの体は、網のような血管が浮き出ている。注意して見ると血管を通って血液が流れているのが分かった。胸のあたりもかすかに震えている。

〝良かった。生きてる〟

直樹は自分でも気付かないうちに微笑んでいた。

生まれる前の命は、見るからに脆く、危うかった。しばらくの間、直樹はその不可思議な物体を見つめていた。黄身とヒヨコの間にあるグロテスクで危うい命。それは図鑑で見ていたイラストより、もっとずっと美しく、直樹の心を打った。いつまでも眺めていたいと思った。

しかし、時計の針が六時を指し、部屋の窓から入る西日が弱まってきた頃、雛に変化が起こった。喘ぐように嘴を開けると、苦しむような様子で両足の先で殻の内側を引っ掻きだしたのだ。直樹は混乱した。ここまで成長していれば殻を破っても雛は生きていけると思っていたからだ。図鑑にもそう書いてあったはずだ。

〝どうしよう、こんなつもりじゃなかった〟

雛は目を閉じたまま、嘴と足を動かしてもがき続けた。直樹はどうしていいか分からず、ただおろおろと苦しむ雛の様子を見ていた。五分ほど過ぎた頃、雛に再び変化が現れた。雛は卵の中でそのまま息絶えた。体を丸めたまま、それはもう二度と動かなかった。

何か見てはいけないものを見たような気がして、直樹は目を反らした。西日が途絶えて、部屋の中はすでに薄暗くなっていた。直樹は頭を抱えて唇をぐっと噛んだ。自分のしたことに対する、言い様のない罪悪感が押し寄せてきた。

その時、再びチャイムが鳴った。直樹は逃げるように部屋を出て、玄関のドアを開けた。そこには溝倉里美が立っていた。

「さっき若井君と会ったよ」そう言った溝倉の瞳は怒りに燃えていた。

「私は嘘つきなんかじゃない…! 私はあんたが卵を盗っていくのを見たんだよ! 嘘つきはあんたでしょ?」

剣幕に押されて、直樹はじりじりと後ずさった。溝倉は直樹をにらみつけながら詰め寄っていく。

「卵をかえしなさいよ。私、本当は全部見てたんだから、山中君が卵を盗ってランドセルにいれていたところ。あの子は私が引き取ろうと思ってたんだから返してよ」

「しょ、しょ、証拠はあるのかよ!?」直樹がそう切り返すと、「あるわよ」と溝倉は手に持っていた携帯電話を突きつけてきた。

買ったばかりの新しい携帯電話で、傷ひとつついていない。ディスプレイにはニワトリ小屋から卵を持って出てくる瞬間の直樹の姿が映っていた。溝倉がキーを押すと、画面の中の直樹が動き出した。直樹が卵をランドセルに入れるまでを撮影した動画だった。

「あんたが掃除をしながらニワトリを抱えて苛めているのが見えたから、なんてヒドいことする奴だと思って撮っていたんだよ」

金曜日の放課後、溝倉里美は音楽室で教師を待っている間、親にやっと買ってもらったばかりの携帯電話の機能を試していた。ビデオの試し撮りをしながら窓際にやってきた時、直樹が卵を奪っていく瞬間に出くわしたのだった。

「帰り道で若井君にあったら、いきなり嘘つき呼ばわりされたから、この動画見せておいたよ。若井君すごく怒ってた。明日あんたをぶん殴って絶交するって言ってたよ」

直樹は体から血の気が引いていくのを感じた。太志は勢いでそんなことを口にするタイプではない。やるといったら本当にやるだろう。いかにも得意げな目の前の女の顔を見て、直樹は悔しさがこみ上げてきた。何でもいい、何か言い返してやらないと気が済まなかった。

「が、学校に携帯電話なんて持ってきていいのかよ。お前、学級委員だろ!? 携帯電話はダメだって今日の学級会でも田島先生が言ってたじゃないか!」

言い終えた自分の言葉で気がついた。

〝そうか、だから溝倉は証拠があるのに出さなかったんだ。学級委員の自分が学校に携帯電話を持ち込んでるのを、誰にも知られたくなかったんだ…〟

自分が馬鹿な思い違いをしてことに直樹は気づいた。そして、携帯電話のことを黙っていたのは、いかにもプライドの高い溝倉らしい行動だった。しかし、溝倉はもうそんなことはお構いなしに、直樹を糾弾するつもりなのだと分かった。

溝倉が再び口を開いた。

「あんた、私と同じで雛が欲しいんだと思ったし、ただでさえ毎日月本達にいじめられてるから同情してもやってたけど、もう無理。全部バラすからね。いじめられようと絶交されようと、あんたが自分でやったことでしょ? 全部あんたが悪いのよ。卵をかえして。私が明日先生に言ってちゃんと引き取るから。ねえ、卵をかえしなさいよ! ねえったら!」

興奮した溝倉は、指が食い込むくらいに直樹の両肩を掴んだ。たまらなく痛かったが、直樹は何も言わず黙っていた。溝倉はそのまま直樹を大きく揺さぶった。

「返せ! 私のあの子を返してよ! 返せったら! 返せ!」

「…分かったよ」

直樹は呟いた。そして、溝倉についてくるように言うと、二人で階段を上っていった。

日が落ちきった部屋はもう真っ暗だった。かろうじてものの輪郭が分かる程度だった。直樹は手探りで壁にあるスイッチの位置を確かめ、指を置いた。引き金を引くようにぐっと力を込めた。でも無理だった。どうしてもスイッチを入れることができなかった。直樹は言った。

「ねえ、ひ、ひ、雛は僕が育てるよ。そ、そ、育てたいんだ。お願いだよ」

背後で溝倉が大きく息を吐いた。

「無理よ」

「僕、い、い、生き物が好きなんだ。絶対に大事に育てるよ。だ、だ、だからさ、いいだろ?」

直樹の声はうわずっていた。

「駄目よ。いい加減にあきらめなさいよ」

溝倉は直樹の指の上から無理矢理に壁のスイッチを押した。蛍光灯が点灯して部屋の中を青白い光で満たした。あっと思ったが遅かった。溝倉は直樹の脇をすり抜け、机の上に放り出されている卵に目を留めると、顔をほころばせて近寄っていった。

そしてすぐ、突き刺すような悲鳴が直樹の耳に聞こえてきた。

〝こんなはずじゃなかったんだ…。こんなはずじゃあ…〟

心の中で必死に弁解したが、どうにもなるはずがなかった。鋭く振り返った溝倉の平手が直樹の頬を打った。彼女は唇を噛みしめながら直樹を睨み付け、もう一度その頬を張った。

「人殺し! あんた人殺しよ!」

痺れたように直樹は立ち尽くした。頬に熱い痛みが広がってきた。溝倉は涙ぐんでいた。同時に何か得体のしれない、おぞましい虫が這いつくばっているのを見たような、血の気の引いた表情を浮かべて言った。

「なんなのあんた!? 気持ち悪い!」

溝倉は直樹を思い切り突き飛ばし、階段を駆け降りていった。その足音が聞こえなくなるまで、直樹は動けなかった。

部屋の中には卵と直樹だけが取り残されていた。時計の秒針が時間を刻む音だけが聞こえた。直樹はただじっと俯きながら、その音を聴いていた。

 

(了)

 

作:丘本さちを

https://note.mu/kesyuhamonium

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