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月に約一度、三畑幾良が甘味にまつわる掌編小説を書いていきます。

今月の甘味は「パウンドケーキ」です。

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試合の日が近づいてくると、斎藤は夜中に台所に立つことがあった。

目を擦りながら私が起き出すと、斎藤は決まりの悪そうな顔をして、しかし眼だけはぎらつかせていた。

「うるさかった?」

台所を覗く私に斎藤がそう尋ね、

「いや、トイレに起きただけ」

と私が答えるまでが定番だった。

その時に斎藤が何をしているかは、もちろん場合によるもので、卵を割っていたり粉をふるっていたりオーブンを眺めていたりするのだが、作ろうとしているものは同じだった。

その工程によっては、私も付き合って完成を待つことも、そのまま寝室に戻ることもあった。

もっとも、結婚直後に初めて、斎藤が夜中に台所に立つ姿を見た時には驚き、また戸惑ったものだ。

何故といって、斎藤が作っていたのはどう見ても甘いケーキだったから。そしてプロボクサーである斎藤は試合前には必ず厳しい減量をしていたからである。

減量は大丈夫なのかと尋ねたとき、生地をかき混ぜながら斎藤は目を細めた。

「多分食べないから大丈夫」

「食べないのにどうして作るの?」

「食べたいから」

「作ったら余計に食べたくならない?」

「だからさ、ケーキを作るでしょ。皿に置くでしょ。熱々で、端っこはカリッとしていて、ブランデーの香りとかしちゃって、それはもうおいしそうなやつを。それで、それを見ながら自分と話すわけ。これを食べたいかどうか。そうすると、意外と大丈夫になる」

私はその時に、何が「大丈夫」であったのか尋ねておけば良かったと今でも思っている。しかし、若かった私が尋ねたのは別のことだった。

「なんでケーキなの? そんなに甘いものすきだったっけ?」

「大好きだよ。それに、これは小麦粉と砂糖とバターと牛乳と卵を全部同じ重さだけ入れる、パウンドケーキ。計量のことを思い出せそうでしょ」

照れたように笑う斎藤は凛々しく、その時に私は、この人におよそ全ての幸いが降り注ぐようにと願ったものだった。

それからずっと斎藤は、試合前には当然甘いものなど口にせず、私との結婚の二年後に生まれた長男の優太のバースデーケーキも眺めるだけの年がほとんどだった。もちろん減量をしていなくても日頃から食べ物には注意していたし、何より、私などは三分で倒れてしまうような厳しいトレーニングを続けていた。

夜中に作られたケーキは、翌日から何日かかけて私や優太が食べるのが常だった。

しかし今は夜中ではなく窓からは鮮やかな夕焼けが見えて、パウンドケーキを作っているのは斎藤ではなく私だ。

等量の小麦粉、砂糖、牛乳、卵、バターを混ぜて、ベーキングパウダーを加える。一ポンドは約四五四グラムだということは斎藤と結婚してから覚えたが、ケーキを作る分量としては多すぎる。斎藤はいつも百グラムずつにすると言っていて、私もそれにならった。そこにドライフルーツを混ぜこんでブランデーを足らしたものをオーブンへ。極めてシンプルなケーキだ。

オーブンを眺めて、斎藤のことを考えていた。斎藤はここで何を思っていたのだろうか。

プロボクサーである斎藤と結婚した私は恐らく普通の範疇に入る会社員だが、「大変ですね」と言われる回数は私の方が多かったのではないか。私としては、どちらも同じように大変か、より肉体的にハードな斎藤の方が少し上だと思ったものだが、私たちは曖昧な微笑みでその言葉を受け流した。

斎藤は他の全ての人間と同じように、時々不機嫌になり、それより少し多い頻度で上機嫌になって、つまりごく普通の配偶者だった。

ボクサーとしての斎藤は、怪物と呼ばれていたらしい。詳しいことはよく知らない。そうかもしれない。

試合も何度となく見に行ったが、私の中でのボクサーの斎藤は、ケーキの生地を混ぜ合わせている時のぎらぎらとした眼差しだった。

「ただいま」

優太が帰ってきた。八歳になった優太は、今年からサッカーを始めている。

「おかえり。早く着替えなさい」

「なんだ、またそのケーキ?」

優太は洗面所に駆け込む直前、台所を一瞥して少し困ったような顔をした。

その顔を見たら斎藤は何と言うだろうか。私と優太との間には秘密がある。

今日は斎藤の人生で最後の試合の日だが、斎藤は普段通りに家を出て行った。ただ、減量を始めてから一度もパウンドケーキを作らなかったことだけが、違っていた。

斎藤は夜中にパウンドケーキを見つめて、自身と何の話をしていたのだろうか。パウンドケーキとボクシングの重さを計量していたのではないかなどと言うと斎藤は笑うだろうか。

オーブンがケーキの出来上がりを告げ、服を着替えた優太が戻ってきた。

「さあ、行こうか。お母さんの引退試合」

優太は頷く。

「終わったら、これ、お母さんに食べさせよう」

優太はまた頷いたが、今度はにやりと笑っていて、実は私も同じ笑みを浮かべていた。

ボクサーを引退して別の人生を歩み始める斎藤がこれから戸惑うことは多くあるだろうが、その第一はこのパウンドケーキであるはずだと、私と優太は確信している。

「これ、おいしくないもんね」

優太のその言葉が全てだった。私はそれを、彼が生まれる前から知っている。

「まずくはないけど、もうちょっと工夫すべきだね。分量とか」

ケーキをオーブンから出して新聞紙を被せ、私と優太は玄関に向かった。

斎藤の今日にも明日にも明後日にも、ありとあらゆる幸いが降り注ぐことを私は願う。

だが、斎藤には彼女の夫と息子の小さな不幸を知ってもらわなければならない。

斎藤が見つめていたケーキは、多分斎藤が思っているほどの味ではない。

「行こう」

私と優太は、妻であり母であり、怪物と呼ばれたボクサーの花道を、見届けに行く。

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次回の小説掲載は12/20(日)頃を予定しています。よろしくお願いいたします。

(三畑幾良)

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