eiffel-tower-975004_640

ヨーロッパ諸国は、隣国と国境が接しているため昔から常に侵略の危機に晒されてきたこともあり、国家のアイデンティティーは強固なものがある。

それらアイデンティティーは、同胞には甘く、異国人に対しては辛辣なまでに歪められ、国土を守る武器と化す。

例えば、フランスの標語「自由・平等・友愛Liberté, Égalité, Fraternité(リベルテ、エガリテ、フラテルニテ)そして、フランス国民資格の原理に見られる啓蒙主義的普遍主義は、同胞には尊き精神として用いられ、対外的には植民地拡大のための都合の良いスローガンとして効力を発揮した。

そして、このようなアイデンティティーを主張する集団同士・・・国家間であったり、その規模が大きいほど衝突は避けられない。

規模を小さく考えた場合、例えば企業内の部署間などであれば、互いの主張の利点を認め合い、不足を補うことで企業全体の成長が促進される訳だが、規模が大きければ大きいほど、体裁や面子が壁となり、柔軟な対応が困難になるのだろう。

加えて、前回挙げたインドの(報道で言うところの)カルト宗教団体VSインド国家のように、力の差が歴然としている場合、弱いほうが強いほうの都合や体裁に不利益を与える主張をした日には、一方的に排除される。インドのニュースの場合も、その後モディ首相の訪米が控えていたため、米国へ向けての政治的デモンストレーションとも受け取れる。

self-898367_640

さて、表題のナショナリズムに関して言えば、先述したような国家のアイデンティティーが強ければ強いほど「右」に傾く傾向があるのではないだろうか?

そう仮定した場合、行き過ぎたナショナリズムを抑止するにはどうしたら良いのだろう。

筆者が着目するのは、米国やインドのような連邦制だ。

日本では「道州制」と言ったほうが分かりやすいかもしれない。

連邦制を語る前に、政権が一極集中型に見える社会主義国の中にも、国土が多きすぎるために連邦制を導入している国家がある、ということを申し上げておきたい。

例えばロシア(旧ソヴィエト)がそうだ。

ロシアの場合は旧ソビエト連邦およびロシア・ソビエト邦社会主義共和国(ロシアSFSR)では、ナーツィヤ(民族)、ナロードノスチ(亜民族)、プレーミャ(種族)という民族集団の規模や自立度の階層に応じて三段階の民族自治体があり、段階が下がるにつれて自治権は小さくなっていた

ちなみにナーツィヤ・・・国民国家を形成できる規模とまとまりの民族

ナロードノスチ・・・国家を持つには至らないまとまった民族

プレーミヤ・・・先住の小さな民族

である。(Wikipedia参照)

これから分かるように、ロシアの場合は連邦制を取りながらも、それぞれの自治区の権利は決して平等ではなく、中央政権と地方自治との間には、かなりの温度差が生じていたと思われる。

中央と地方の温度差に関して言えば、インドの場合も同じようなこと・・・いや、恐らくはロシアよりも複雑な地方自治であろうことから、ロシアより更に収集のつかない状況になっているだろう。

そして、ロシアの体制とインドの体制を比較する場合に、念頭に置いておかねばならないことがある。

それは、社会主義のロシアを表す際は、国家主義・国粋主義のナショナリズムで妥当なのだが、インドの場合は、多民族・他宗教であるため、国全体への愛着というより、それぞれの地域への愛着・・・パトリオティズムと表現したほうが正しいだろう。

国家主義のナショナリズムに比べ、郷土主義のパトリオティズムのほうが、どこか柔和で日本人にもしっくりくるのではないだろうか。

筆者が思うに現代の日本人は、世界最古の王室、天皇家を大切に思うナショナリズム的精神と、地元の伝統や祭りなどを愛するパトリオティズム的精神のバランスを比べると、ややパトリオティズムに偏る傾向にあると感じる。

person-690245_640

さて、話題をインドに戻して、柔和なイメージのパトリオティズムだが、こちらも行き過ぎると大変恐ろしい結末を招くことになる。

読者諸氏の中にも、インドと聞けばレイプやカースト差別など、マイナスの要素を思い浮かべる方が多くいるのではないだろうか?

それには大きな理由がある。

インドは、先ほどから述べているように連邦制を取っており、それぞれの洲に自治が一任されているのだが、他の国家と違って、洲が更に細かく細分化されている。

これは、パンチャーヤット制度といい、5人(パンチ)の主要メンバーによって組織される、「村(ヤット)政治」であり、長老会議制とも呼ばれる。

最小の単位が村パンチャーヤットだとすると、その上に郡パンチャーヤット、洲パンチャーヤットが存在し、地域で起きた瑣末な事件などは、洲や国まで届かないのが現状だろう。

警察も、パンチャーヤットの管轄へは安易に口出しできなかったり(というより、関わるのを面倒に思ったり)、口止め料として金銭を受け取っていたりするものだから、村での出来事が全国ニュースで流れるのは、ごく稀なケースなのだ。

この村パンチャーヤットは、伝統的にも宗教的にも深く地元に根ざした存在であり、彼らが下す裁決もまた、酷く宗教がかったものであったりする。

例えば、村の作物が不作な年があったとする。

そして、村人の苛立ちが最高潮に達した中、村はずれに住む低カーストの女性が魔術を行った、という噂が流れたとしよう。

村中はあっという間にに「あの女性は魔女で、村に不作の呪いをかけたのだ」という酷いデマで持ちきりとなり、結果、その報告がパンチャーヤットの元へと届けられる。

すると、我々日本人にはにわかには信じられないが、パンチャーヤットは村の男たちに、女性を殺害するようにという命令を下すのだ。

罪なき女性の処刑は、村の正義の名の下に執行され、警察も見て見ぬフリをする。

こんな凄惨な出来事が、今の世の中でも普通に行われているのだ。

日本でも、都会に住む人はピンと来ないだろうが、田舎には奇妙奇天烈な風習が、まだ多く残っている。

例えば、地域の名は伏せるが、数年に一度行われる奇祭は必ずと言って良いほど死人を出すが、もう止めようと言う地元民はおらず、神聖な行事なのだから、多少の犠牲は致し方ない・・・とも取れる風潮すら感じられる。

無神論者からすれば、さぞかし残酷で野蛮な行事に見えることだろう。

(筆者に伝統ある神事を批判する意思はありません)

ここで、前回取り上げたインドのカルト集団の強制鎮圧事件だが、彼らが掲げていたのは英国風の政治システムの完全なオーバーホール 現通貨システムへの物言いだったことから、彼らに当てはまるのはナショナリズム(インドを植民地にしていた英国のシステムを完全に排し、インドオリジナルのシステムへの移行を希望する、という意味で)のほうだろう。

ナショナリズムとパトリオティズム。

先に挙げた「行き過ぎたナショナリズムを抑止する方法」だが、筆者はこの似て非なるもの同士が互いに監視し合い、丁度良い塩梅にバランスが取ることこそが答えであり、それが国家にとって理想の状態なのだと思う。

我が国では、道州制の話題は出たり消えたりと、まだ現実味を帯びるには尚早な案件かも知れないが、実施の方向へ進むのであれば、上手くバランスの取れた、世界の手本になるような体制を築くべきではないだろうか。

LINEで送る
Pocket