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「七戸さんよ、あんたには来月から営業に回ってもらう。」

御年83歳のわが社の会長はこともなげにこう告げた。

「来月からですか?・・・わかりました。」

「おおう、あんたは全く動じんな。見かけによらず肝がすわっとる。儂が見込んだとおりだな。

まあ、そんなの私は向いてませんなんて愚痴をたれる人間に儂は給料なんぞ払いたくないがな。」

・・・動じないのではなく呆然としているのですが、

儂が見込んだとおりといわれましても正直なところ見込まれたくなかったです。

「うむうむ、社長からは儂が言っておく。」

ということはこの件は社長じゃなくて会長、あなたの采配ということですか。

ううん、社長に直談判すればなんとかしてもらえるかしら?

いえ、やめておきましょう。

一度決めたらテコでも考えを変えないこのワンマンな老人に息子である社長がかなうはずもない。

それにこの局面で自分のワガママを押し通すことができるのは、

誰にも文句を言わせないほどの一流の仕事が出来る人だけで、

私程度の平均的な人間ができることではない。

雇われの身のつらさが身にしみる

うちは社員総勢18名ほどの小さな磁気カードをつくる会社。

病院の診察券からパチンコの会員カードまで扱い私はこれまで

PCの前でカードのデザインと原板(カードの指示書)の制作を担当していました。

これまでひとりでコツコツ机の上で作業していた私がまさか営業に移動になるとは。

「はじめは長谷川についていけ。あいつはやり手だからな!盗めるものはどんどん盗めよ!

あんたなら出来る、外回りは昇給もいいぞ。」

私がウダウダしないとわかり機嫌を良くしているようだ。

会長が社長を引退したのが3年前。

脳梗塞で病院に運ばれ大事に至らず健康をとりもどしたものの会社の将来を考え

息子に社長の座を譲り、隠居しおとなしかったのはわずか1年のあいだだけ。

やがて、暇を持て余し職場で機械の修繕やら、なにかすることはないかとウロウロしだし

作業で忙しくしている従業員に人生訓をこんこんと言って聞かせるわ

事務員さんとお昼時間に炊き出しをはじめ従業員に味噌汁を振る舞いはじめるわ

従業員としては有り難いような迷惑なような、しかし相手が相手だけに嫌な顔も出来ず

とうとう息子である社長がやんわりと意見したところ、

それを期に自分に会長という役職をあたえ

社長にピッタリと張り付き意見するようになったのです。

しかも最近ではこのように勝手に人事にまで口を挟んでくる始末。

そうこうしているうちにこの会社は比較的温厚で優しいと評判の社長と圧倒的でワンマンな会長と

命令系統が2つあるという非常に面倒なシステムになってしまったのです。

何のために息子に社長の座を譲ったのやら。

これでまた仕事に気を取られ家庭を亨に任せなくてはならなくなりそうだわ。

 

おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に。

我が家は『私が芝刈り』で『夫が洗濯』という役割分担がひっくりかえったままどんどん転がっていく。

別に仕事が嫌いというわけじゃない。

結婚してもしばらくは続けるつもりはあった。

ただ、子供が生まれたら家庭に入って小学校に入学する頃合いをみて

これまでスキルを生かした仕事をして行けたらいいかなぐらいの気持ちでしかなかった。

けれど、現実はそんな気楽なライフワークを許してはくれなかった。

夫の亨は今無職なのだ。

どうか神様!夫の亨に良き就職先を!そんな

願いは聞き入れられず

代わりに派遣社員だった私が今の職場で正規雇用され働くこととなりました。

そうして私は今「生きがい」とか「やり甲斐」のためではなく

ただひたすら「私と私の家族が生きていくため」に働いている。

異動がいやだどうこう言っている贅沢なんて今の私にはない。

が、がんばれ!私!!

負けるな!七戸友紀乃!!

 

〈つづく〉

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