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「森が好きなマロの物語」

 日が昇り始め、まだ明るくなり切っていない時間。誰よりも早く起床して、自分の寝床である納屋を軽く掃除し、家畜の世話をしながら馬と一緒に水を飲み、家の人が起きるのを隅っこの方でじっと待つ。
 足元を這いずり回る虫を指先で潰し、目の届く範囲に潰せる虫がいなくなった頃には、家の人が起き始める。ポツポツと朔日の事や今日行う作業の会話が聞こえ始めると、マロの沈黙の時間が始まる。

 森の中で倒れていたのを家の人が見つけ、マロを家まで連れて行き、仕事と寝床(納屋の隅っこ)を与え、マロを都合良く飼い始めた。家の人に取って都合が悪かったのは村人にマロの姿を見られる事。なので日中は外に出る事を許されなかった。日光があまり好きではないマロに取っても都合が良かったが、納屋の隅っこでじっと日が沈むのを待つのは少し苦痛を感じた。小石を一列に並べてみたりしたが、それは朝日が十七回昇る頃には飽きていた。
 次にマロが考えたのは土を指でなぞる事だった。指先に砂利の粒を感じるのが気持ち良くて始めたが、これは朝日が二十二回昇る頃には飽きていた。次第に陽気が心地良くなって来たせいか、納屋で様々な虫を見つける事が増えてきた。試しに動きの鈍い虫を指先で潰すと、腹部の辺りから白い体液が出てきた。唐突に出てきた乳白色の体液は、マロの両目に驚きを与え、瞳孔を開かせた。それから色んな虫を潰し続けた。中には体液すら出ずに粉々になってしまう虫もいて、そんな虫は食べてみてもあまり美味しくはなく、苦味が強いか、味が無いか、舌先が痺れるものもあった。
 色んな虫を潰して口に入れてみた結果、分かったのは腹部が立派で、羽根があり、脚の力が強い虫程、味は良かった。ただ、大体そういった虫は動きが素早いか、飛んで高い場所に逃げられてしまうので、なかなか味わう機会は無かった。稀に運良く捕まえる事が出来ると、何故だか顔がジンジンとする事に気が付いた。感情の昂りから来るものだったが、感情というものを知らないマロは、そのジンジンが何なのか、と言うところまでは理解が出来なかった。苦痛を軽減するこの遊びは、朝日が六十二回昇ったこの時も、まだ飽きてはいなかった。

 マロの苦痛はじっとしている時間だけでは無かった。
 家の人の機嫌を損ねたりすると、背中を木の枝で出来た鞭で叩かれたり、鉄製のペンチで腿の肉を挟まれたり、足の爪を剥がされたりした。時には理由も無く虐待を受ける事もあった。
 だけどマロはどれだけ酷い虐待を受けても死にはしなかった。マロの身体には誰も知らない秘密があった。どれだけ醜く傷を付けられても暫く経つと何もなかった様に消えているのだ。
 鞭で割かれた背中の肉も、千切れた腿の肉も、剥がれた足の爪だって何も無かった様に綺麗に戻っている。
 それはマロにしてみても不思議な出来事だった。
 ” なぜむしたちは、つぶれたままなのに、ぼくはもとにもどるのだろう ”
 ” いや、ぼくだけではなく、きっとほかのこどこもたちはもっとはやく、きれいにもとにもどったりするのだろうな。だってぼくよりもりっぱなかっこうをしているし、きれなふくをきているのだもの ”
 そんな事を考えながら、この日も虐待を受けて千切れかけた小指を、藁と木の葉と木の皮で包み、牧草の上に横たわり、翌日の仕事に備えて寝る事にした。こうしていれば明日にはきっと千切れた小指は繋がっている。いつもと同じ様に。きっと元通り。
 じゅくじゅくと疼く痛みにうなされる時は、まどろみに引き込まれ様と、痛みを遠くに飛ばそうと、懸命に藁の匂いを嗅いだ。藁や草の匂いはマロの気持ちを落ち着かせ、ゆっくりと眠りに落ちていく事ができたから。あの日、森の中で倒れていた時と同じ様に、匂いを嗅げば、落ち着く事が出来るから。そっと、そっと。

 朝日が六十九回昇った時、マロは虫潰しの遊びに飽きていた。次は何をしようかと、ボンヤリと納屋から外を眺めていると、赤いスカートを履いた小さな家の人が、森の中に入っていくのを見つけた。日が高い時間ならば、身体の大きな家の人と一緒に作業をしている筈なのに。マロは外に出てはいけないという言い付けを破り、日光から避ける為、藁束を頭から被り、赤いスカートの家の人の後をつけた。

 _____森の中の空気は澄み渡っており、木々達から生命の息吹を感じさせた。” もっと早くこの場所に来ていればよかったのに ”マロは少し後悔した。
 赤いスカートを履いた小さな家の人は、森の中の湖まで行くと、赤いスカートをたくし上げ、臀部を丸出しにして水で洗い始めた。真っ赤に染まった手を水面に付けると、ふわっ、と紅い花が拡がった。
 ” あのこはおしりをいじめられたのだ。だからあんなにちがでているんだ ”
 マロは自分がされたのと同じ様に虐待をされたのだと思った。
 ” それにしてはいたがっていないね。やっぱりきれいなこはもとにもどるのがきれいではやいんだ ”
 家の人はどんな様子で傷が治るのだろうか。興味が赤いスカートの下に引き寄せられてしまい、どうしようも我慢が出来なくなったマロは、まずはこっそりと赤いスカートを履いた家の人の後ろに立った。
 ぶつぶつと何かを呟いている赤いスカートを履いた家の人はマロの事は一切気が付かず、懸命に臀部を水で洗っている。
 マロはしゃがみ込んでも臀部の下がどうなっているか見えなかったので、地面に這い蹲り、左頬を地面に付けて覗いてみた。
 ” いたそうだね ”
 思わず声に出してしまい、赤いスカートを履いた家の人は驚いて湖に「ドボン」と落ちてしまった。
 気が動転しているせいなのか、衣服が絡まってしまったせいなのか、なかなか赤いスカートを履いた家の人は岸辺に登れない。やがて疲れ切ってしまい、ぷくぷくと小さな泡を吐き出しながら湖底に沈んで行った。
 ” このなかにはいれば、もっときれいになおるんだろうか。すごいな、たのしいな、ふしぎだな ”
 暫く経っても赤いスカートを履いた家の人は水面に上がって来ない。よっぽどこの中は居心地が良いのだろうか。痛みを忘れて安らかに眠れるのだろうか。マロは赤いスカートを履いた家の人の事が羨ましくなった。
 マロは赤いスカートを履いた家の人の真似をしたくなり、先が尖った枝を持ち、下腹部に切っ先を当ててゆっくりと腹を裂いてみた。
 ドロリとした鮮血が下腹部から流れ出て行く。臓腑が裂いた傷からぷくりと覗き始める。
 ” これもしばらくするともとどおりになおってしまうんだ。ふしぎだな、たのしいな ”
 右足を湖面につけると、ぶぴゅっと音がして、血のシャボンが幾つか下腹部に出来た。
 左足を湖面に付けて両脚を揃えると、ぱちゅんと赤いシャボンが幾つか弾けて下腹部から膝の辺りまで塗りつぶされた。その様子はまるで赤いスカートを履いている家の人の様だった。
 すっ、岸辺をつかんでいた両手を離すと、その身体はあっさりと湖底に近づいて行った。
 ふっ、目を開けて湖面を見上げると、まだ森の緑が目に入り、乱反射する光が楽しかった。
 その時マロは思った。
 もっと森の中に居ればよかったと。
 湖底に身体を委ねる頃には、その思考も既にかすれていて、森の緑がもう懐かしかった。

 これが一人目のマロの物語。

 続く

 

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