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 小津原の瞳が麿理の様に丸くなり、仕草も幼い少女みたいに身をよじらせている。
 その後、暫く口を開けたまま呆然としたかと思うと、しゃがみ込んだまま指先で何も無い所の何かを潰し始めた。人差し指に何かが付いている様な素振りを見せると、ゆっくりに口に指を運んでぴちゃくちゃと舐めている。
「ちょ、ちょっと辞めてよ気持ち悪い。変な演技しないでったら」
 ここでは無い何処かに居るみたいに無心になっている。指先を舐め尽くした後に穏やかな表情に変わり、また暫く呆然としたかと思うと、胸の辺りを仕切りに拭き始めた。……これが二人目?
 身体の汚れが気になるのか、その仕草はとても丁寧で恥じらいを見せる少女の様だ。左胸の辺りに傷でもあるのだろうか。手が当たる度に身をよじらせる。暫くすると激しく身体が震えて、硬直して動かなくなった。三人目だ。
 能面みたいな表情に落ち着いたかと思うと、勇ましく険しい表情に変わり始める。その様は、ホラー映画に出てきそうなモンスターみたいだった。仕切りに自分の腕を叩いては、どこの言語か理解できない言葉で何かを呟いている。確かに私が見ている前で小津原は小津原以外の人格を表に出した。両の手を組んで何かを崇める様な素振りを見せた後、そのまま椅子に向かって倒れる様に座り込み、ぐるぐると首を回すといつもの小津原の表情に戻った。
 狂気。それしか当て嵌まる言葉がないぐらいの異質な時間は数分しか経っていなかった。
「これで理解してくれたら助かるよ。今の、酷く体力を消費するんだ」
 呼気が荒くなり尋常じゃない量の汗を流していた事に、素面に戻った小津原を見て気付いた。
「麿理とは意識の繋がりが薄いから、共有出来た記憶が少ないし、引き出そうとしないと彼らの記憶は分からないけどね。今のがそう。引き出している時は俯瞰で自分を見ている。麿理の記憶は少し前に見る事が出来た。……最近麿理の事、ぶったろ?」
「もういい。もう沢山よ!」
 部屋を飛び出ると、とても悲しい目つきで麿理を見たまま、鏡の前でおどける麿理を見つめていた。
「スカートありがとうございました。ほら、お礼言って。もう帰るよ」
 腕を掴んで教会から外に出ようとすると、痛みに驚いたのか、叫び声を上げた。……痛みに?
「ママ、腕のところいやだ。なんか変なかんじがするの。離してってば」
「あなた、もしかして腕が痛いの?」
「……いたいって……これのことなの?」
 困惑した麿理の表情が、私の胸を突き刺した。恐れていた事がこんなにも早く訪れるなんて。……誰か教えてよ。こんな時どうやって麿理を支えればいいんだ。

 _____「日曜日には必ずここにずっと居るから」
 先程までの狂気に満ちた瞳とは違って、娘を愛おしく見つめる父親の目つきに変わっていた。小津原がこんな表情をするなんて、それだけで違和感を覚えるのに、情報を整理しようとするだけで目眩がしてくる。
「あなたを許した訳じゃないから、勘違いしないで」
 小津原と神父は駆け足で逃げ出した教会の前で、こちらをじっと伺ったままずっと立っていた。

 団地に戻り、錆が浮かんだ鉄製の青いドアを開けると、母胎に戻ったかの様に安心する事が出来て長い溜息を吐いた。家に着くまでまともに呼吸もしていなかった気がする。
「ママ……あの男のひと、私のパパなの?」
 安堵の溜息があっという間に重い溜息に変わっていく。
「そうね。……パパよ。あなたのパパ」
「パパ、いたんだね。私にもいたんだね。ありがとうママ。パパがいたっておしえてくれてありがとうね」

 何も言えなかった。特殊な身体の事に捕らわれてしまって、私は根本的な事を忘れていたんだ。
「……ごめんね。ママいけないママだったね。優しくしてあげてなくて、ごめんね」
 嗚咽とも怒号ともつかない叫びが咽頭を破っている私を、麿理はまるで聖母の様に抱きしめてくれた。その瞬間に何故この子が産まれてきたのか、小津原と時間を共にしたのか、無条件で小津原と麿理を愛したのか、
 ストンと腑に落ちたんだ。悩んだ回数は百回も悩んでいただろう。その悩みはこの子をちゃんと見つめていなかったという自責の念だったのか。もしかしたらそれ以上かもしれない。でも、百一という数字が頭に浮かんで、とにかく理解が出来たんだ。

「麿理、疲れてない?腕は痛くない?もう一度さっきの場所に行こうか」
「うん、へいきだよ」

 小津原がいる教会に向かう時、私は初めて麿理と手を繋がずに、稲妻が閃き去ったような気持ちで、私達親子は晴々しく自由に二人で歩いたんだ。
 
 小津原に伝えてみよう。そして聞いてみよう。私が存在している意味を。これからの私の役割が間違っていないかを。

続く

次回六月十日更新予定

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