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「すごいね、けしきがあっという間にとんでいくね」
「大人しく座ってて麿理」
  物心がついてから初めて電車に乗ったのだから、物珍しくて仕方が無いのだろう。 いつ怪我をするか分からないのだから、大人しく座って居て欲しいのに……。外でうっかり大声を出して叱ってしまわないように気をつけなければ。
  私達が住んでいる野方から広尾までは、二回電車を乗り換え無ければならない。広尾に着くまで、手を離さない様にして、怪我から麿理を守らなくては。外は何があるか分からないのだから。
  最初の乗り換え駅は高田馬場。改札を出て山手線のホームまで大した時間は掛からない。私一人だけだったらだが。
「ママ、ママ!あのひとすごいはやくうごかしてるね!パチンパチンすごいよ!みて、みて!」
  乗り換えの改札で、駅員が切符を切っているのが珍しいらしい。ベテランと思われる駅員は西部劇のガンマンの様に改札鋏をクルクルと回している。駅員に興味を惹かれた麿理が不意に立ち止まってしまい、後ろから乗降客に麿理がぶつかってしまった。
「ほらしっかりと歩きなさいったら!危ないって言っているでしょ!怪我はないの!?大丈夫!?」
  血の気が引いた。ゾッとしてしまった。こんな人の多い場所で麿理のおかしな身体の事を知られてしまったら。慌てふためく私の様子は、周囲の人間から見ると大袈裟に見えたのだろう。
「過保護過ぎても子供が可哀想だろ」「あれぐらいで怪我なんてするかよ。キチガイみたいだな」私達を見ていた人間は好き勝手に吐き捨てて、山手線のホームに吸い込まれて行った。ごめんなさいと一言、麿理は謝って大人しくなったが、それは繋ぎ直した手を握り潰さないかと必死に堪える私の顔を見て、ただ怯えていただけだったのだろう。湧き上がる負の感情に、私だって怯えているんだ。自分がこんな人間だったなんて。
  身勝手なモンスター。孤独で寂しがり屋の癖に、一人になりたがる。しょうがないじゃないか、だって誰にも助けを求める事が出来ないんだ。普通の母親並みで良いのであれば、強くなれる自信もあるし、寝ないで働けもする。でも、誰か私に教えられるものなら教えてみてよ。麿理の母として、いつかこの子が自分の不幸に追いかけ回される日が来た時。私は麿理が救われる様な優しい言葉を、どうやって伝えられるのかを。私とは、いや殆どの人間と身体の作りが違う、いや人間ではないかもしれない女の子に、なんて励ましてやればいいのだ。彼女の明るい未来なんて、訪れる事は無いかも知れないのに。

 _____広尾に着いたのは礼拝が始まる時間の三十分前。教会に向かう道すがら、パン屋から漂ってくる甘いバターの香りに麿理が気づいたのか、繋いでいた手をぎゅぅっと握った。
「食べたいの?」
  麿理はかぶりを振って答える。
「まだ少し早いから、ここでパン買って公園で食べよっか」
  もう一度ぎゅっと手を握り返したと思うと、ぎこちない笑顔でママは優しいねと呟いた。麿理の言葉は息を吸い込むより早く私の胸に突き刺さった。このまま動けなくなったっておかしくないぐらい痛かった。激しくなった動悸を必死に抑えながら、クロワッサンを二つ買い、公園のベンチで一口目を頬張る。サクサクした食感と、バターの香りが麿理の笑顔を自然なものにした。
「おいしいね。とてもおいしいね」
  ああ、いつ振りだろうか。この子のこんな笑顔を見るのは。
  生きる事に必死なままに七年間、親娘として大切な時間を過ごさないままだった。麿理の身体を言い訳にしていたのかも知れない。……小津原と会う意味なんてどうでもよくなってしまった。
「麿理、お散歩して帰ろっか。今日は麿理の好きな物作ってあげるね」
  これで良い。これで良いんだ。私と麿理の世界が守られれば、それでいいんだ。茜色に染まりかけた空の下で小さな決心をした。

「ママ!みて、みて。ネコちゃんがいる!」
  鍵尻尾の黒猫が公園の入り口座り込んでいる。人に慣れているのか、何処かで飼われているのか麿理が近づいても逃げようとしない。
「触っても良いけど、後でちゃんと手を洗ってね」
  人間はどれだけ迂闊な生き物なんだろうか。いくら気を張っていても、長続きするものではない。分かっていた筈なのに、ふとした小さな幸せがあっさりと緊張の糸を切っていく。
  穏やかな顔をしながら麿理に触られていた黒猫が、トラックのクラクションに驚いてしまい、麿理の前腕を鋭い爪で引っ掻いた。
「いっ」
 右手から鮮血が流れ出し、麿理の白いスカートを染めて行く。ショックを受けている麿理は呆然として泣き声一つ上げない。治っていく傷口を隠す為に慌てて麿理に覆い被さる。どうすればいいんだ。このままトイレに連れて行って血は流せるかもしれないが、赤く染まったスカートだけはどうしようもない。近くに子供向けの服屋でもあれば良いけど、そこまでこの子をどうする。
「おもいぃ……おもいよママぁ……」
  神様という存在がもし有ったとしても、私には優しくない。優しい神様が居るとしたら、どれだけ不公平なんだろうか。

  会わないと決めていた小津原が、教会に向かう道すがら、私に気付いてしまったなんて、その後に気付かなければ良かった麿理の秘密を知るなんて、神様、貴方を殺したい。
 

続く

次回五月二十日更新予定

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