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「雲が好きな少女の物語」

雲が走っている。今日は北西の風。いつもより風も元気が良い。その風に乗って雲が息切れもせず、私を振り返りもしないまま、頭の上を走り去って行く。
朝聴いたラジオの天気予報士は、正午には雨が降ると言っていたのに嘘つきだ。でも、おかげで” 天気予報士とのギャンブル ”に勝てたんだ。雨が降らなかっただけでもツイていたのに、なんて思うだけで今日一日は充分幸せだ。感動で涙が流れるぐらいだ。

今までの人生だって私には幸せ過ぎる程だった。両親のいない私を養子に引き取ってくれた家の人は皆とても優しいし、毎日のパンだってとても美味しくて、ベッドだってフカフカだ。
もし、誰にも愛されず、ずっと森の中に居たら私はどうなっていたのだろうか。この美しい海や空を見る事なく、幼い身体のままで死んでいたのだろうか。朽ち果てた身体は森に帰り、そしてまた何かに産まれ変わっていたのだろうか。そんな事を考えてしまう時があるが、どんなものに産まれ変わっても、きっと私は幸せでいられるんだろうなという、不思議な確信はある。

切り立った岸壁から五分程度に、白い屋根の我が家がある。家の人の中心であるエバが一人で建てたと聞いた。彼女はそこらの男性に負けず劣らず、肉体的にも精神的にも逞しい女性だ。肉体的には無理かもしれないが、彼女の様な精神にいつか私もなりたいと思っている。

岸壁から三分間程歩くと、あの香ばしいバターの香りが漂ってきた。ああ、きっと今日のパンも美味しいに違いない。まあ、今まで美味しくなかった事はエバの伴侶でもあり、私の義父のレイスが作った時ぐらいだけど。
義父のレイスは料理はからっきしダメだけど、子供を授かれなかったせいか、私には特別優しくしてれる。それに、私の不思議な力を知っている唯一の人でもある。その力を知ってから、夜になるとレイスと一緒に居る時間が増えた。彼と話すのはいつも楽しくて、時間が経つのはあっという間だった。彼は知識が豊富だから、いろんな話をしてくれるんだけど、あまりにも沢山お話をしてくれるから、どんな事を話したか忘れてしまう事があるぐらいだ。
レイスは私の事をこう評価した。
” 君の不思議な力は、きっと神様からの授かりものなんだ。だから、誰にもその力の事は言ってはいけないよ ”
エバと一緒に料理をしていた時の事だ。
野菜くずを細かく微塵切りにしたり、ジャガイモの皮を剥いたり、彼女の優秀な雑用係として、二人で料理を楽しんでいた。レイスが喜びそうなチキンのマスタードソース煮の匂いをよく覚えている。
エバとの話に夢中になり、その日研いだばかりの包丁で左手の親指を切り落としてしまった。痛いと思うよりも、怒られるのが怖くて、エプロンで傷口を隠し、エバに見つからない様に野菜を取りに行ってくるとか、適当な事を言って外に出た。気が動転していた私は左手の親指から伝わってくる痛みとか、流れる血の量よりも、ヘマをしたらこの家に居られなくなってしまうという事の方が怖かった。
納屋に隠れて、エプロンで包んだ親指をそっと見ると、切断された筈の断面が薄っすらと膜を張っており、目に見える速度で親指が生えていた。愕然としたまま立ち尽くしていると、作業をしていたレイスが農機具を取りに納屋に入ってきたレイスに見つかってしまった。
「なんだその血は!どこか怪我でもしたのか!見せてみろ!」
ああ、もう駄目だ。きっと私はこの家から追い出されるんだ。
「……なんだ。どこも怪我していないじゃないか」
隠していた左手の親指を開いて見せた。当然怒られるものだと思っていた。親指は切り落とす前と全く同じ形で残っていた。でも、流れ出ていた血はエプロンにしっかりと残していて、まるで真っ赤なスカートを履いているみたいだった。レイスに事情を話すと、神様からの授かりものだと言って、震える私の両肩を逞しい胸板に抱き寄せて、おでこにそっとキスをしてくれた。それからレイスとの特別な時間が増えて行った。

レイスは初めにエバとの事を話してくれた。幼い頃から同じ村で暮らしていて、子供の頃からエバは逞しかったとか、ガキ大将に虐められているとエバが飛んできて助けてくれたのだとか。
二人はいつも喧嘩ばかりしていて(主にレイスが怒られているんだろうけど)、でもそれでもいつの間にか仲直りしていて、気がついたら結婚もしていたのだとか。それでも仲良くやってきたのだけど、子供がなかなか出来なくて、エバが塞ぎ込む事が増えた時期は家の中全体が溜息に包まれていたとか。
そんな時期に私がこの家にやってきて、私のお陰で溜息に包まれた家は明るさを取り戻したと言ってくれた。私は本当にここに来てよかったと思う。レイスはもう一度私のおでこに優しくキスをしてくれた。その日はいろいろあり過ぎて、他にもいろんな話をしたのだろうけど、いつの間にか眠ってしまっていた。風が優しい夜だったという事は覚えている。

エバは家の人の中で一番の働き者だ。だからいつも夜は早めに寝てしまう。レイスと私の時間は、いつも彼女が寝た後に始まる。レイスは私の不思議な力についても話したいから、エバが起きて居ない方が良いと言った。私の不思議な力は何の為にあって、何に使うべきなのか話し合いたい。その為にも今は二人だけの秘密にしようと。
他には、レイスは子供が出来ない原因は自分の身体にあるのではないかと、打ち明けてくれた。私の話も幾つかしたのだと思う。でもレイスの話がとても悲しかったり、楽しかったりして翌朝には自分の事はあまり覚えて居なかった。

ある日、私は岸壁で空を眺めている時、もしかしたらレイスを助ける事が出来るかも知れないというアイディアが浮かんだ。
私の不思議な力は自分の傷を治す為ではなく、誰かを助ける為にあるのかも知れない。ならば今助けるべきはレイスではないか。その晩、私のアイディアをレイスは抵抗を示しながらも受け入れてくれた。
鎌で手首を切り、流れる血をレイスに飲んで貰った。翌朝には傷が塞がっている訳だし、これでレイスとエバの間に子供が産まれればきっとこの家はもっと幸せな風に包まれるかもしれない。この行為は三十日続けたがしっかりとした効果は見られなかった。

次はレイスからのアイディアで、私の肉体をレイスの口から取り込む方法だった。初めは耳たぶを千切って丸呑みしたり、二の腕の肉を削ぎ落として、飲ませてみたりした。でも、切り落とす場所を変えたり量を増やしてみても、やはり効果は現れなかった。この行為は四十五日間続けた。

エバは私とレイスが居れば幸せだと言ってくれた。でもきっとそれは彼女が強いから言えるのであって、本当の子供が出来たらもっと幸せに違いないんだ。エバが幸せになってくれれば……私もきっと幸せだ。レイスだってもっと幸せになれるんだ。その晩、レイスからの提案を私は素直に受け止めていた。受け止めていなければ、皆はもっと幸せだったかも知れない。

レイスはいつもの様に切り刻んだ私の肉を食べていた。傷口から流れる血から視線を外さずに。
「なあ、マロ。お願いがあるんだ」
レイスは私の両肩を掴み、既に治り始めている傷口に口を近づけた。
「直接、外気に触れない様に、君の血を飲ませてくれないか。それに、もし良ければだが、このまま君の肉を食べてみてはどうだろう」
この行為は二十五日間続けた。鋭い刃で肉を切り落とすよりも、痛みが長く続いていたのだけは覚えている。
二十六日目、私はレイスに違う提案をしようとしていた。これ以上続けても効果がなさそうだし、それにレイスの表情にも恐怖を感じ始めていた。
「血を流し過ぎているせいなのか、日中頭がボンヤリする事が増えたの。記憶も途切れ途切れになる事もあるし。傷口は治っても、血の量はすぐ回復しないのかしら」だから今日は休みたいと言っても、レイスは休む事を許してくれなかった。

この不思議な力を神父さんだとか、お医者に見てもらえば、もしかしたらレイスを助けるもっと良い方法が見つかるではないだろうか。だから、レイスと私だけの秘密にはせず、誰かに打ち明けてみるべきではないだろうか。そう提案するつもりだった。

「さあ、脱いで。今朝、鎌を研いだばかりなんだ。だからきっとそんなに痛くはない筈だ」
乳房の曲線に沿って切れ目を入れる。ぷしゅっ、と血液が飛び出すのを一滴でも漏らさない様にレイスは慌てて吸い付いてくる。幼子の様な格好で、私の乳房に噛み付いてくるレイスが父親になる事を望んでいるなんて、と少し可笑しくなってしまった。いや、おかしくなったのは私だけではなくレイスもだろう。始まりは純粋で素直な気持ちだった。エバを裏切る行為に夢中になっていたのはいつからだろうか。そしてそれを都合良く忘れてしまえば良いと思ったのはいつからだろうか。レイスにも言っていない、もう一つの不思議な力に気がついたのもいつからだったろうか。

_____岸壁から流れる雲を見飽きた頃、いつも私は涙を流していた。幸せに包まれていた事の喜びからなのか、雄大な景色に対しての感動からなのか、理由はいつも違っていた。
ある日、私は自分が流した涙を拭って違和感を覚えた。幸せな気分でもなく、景色に感動していた訳でもない。いつもと違う事と言えば、レイスと初めて納屋で過ごした翌日の景色だという事ぐらいだ。レイスと昨晩話した内容が、楽しかったからなのか、いや、違う。
前にもこんな事があった筈だ。
私の両親が居なくなった翌日だ。私は森の中の小屋でずっと泣いていた。悲しかったからではない。悲しさを忘れる為に泣いていたんだ。ありったけの水分を身体中から流してしまえば、私の前から両親がいなくなった理由を忘れてしまえると思ったのだ。そして実際に忘れてしまえたのだ。
きっとレイスと過ごした日は、忘れてしまいたい何かがいつもあったのだろう。身体の傷がすぐ治ってしまうのと同じで、心についた傷もいつの間にか何も無かったみたいに、しっかりと塞がってしまっていたのだ。
今、レイスが私の乳房に貪っているのは、もう純粋な行為ではないのだろう。きっと大分前からこうなっていたのだろう。その度に私は心に負った傷を都合良く消して来たのだ。きっとレイスがもう一度、エバをきちんと愛するのだと思っていたから。でも、きっともうレイスは私の提案なんて反対するだろう。いつまでも二人の秘密にしておこうと。その方がレイスにとって都合が良いから。
「レイス、貴方が今日鎌を研いでおいてくれて助かったわ。お陰であまり痛く無かったもの」
「そうだろ?これからもちゃんと研いでおいてあげるよ。痛いのは辛いだろうからね」

彼の顎に手を添えて、血に塗れたままの唇にキスをした。舌を絡めてくるのが随分と慣れている様に感じる。きっと随分と前からこういった行為を私達はしていたのだろう。
「泣いているのかいマロ?痛いのかい?」
それがレイスの最後の言葉だった。首に押し付けた鎌の先にレイスの肉が付いているのが見えた。何かを叫ぼうとしているが、喉元から空気が漏れていて声になっていない。

「大丈夫よレイス。きっと私達幸せなの。エバだって分かってくれるわ。だってずっと貴方の子供が欲しかったのでしょ」
きっと明日には全て忘れている。大丈夫。きっと明日も幸せだ。だって私は大切な人の愛を形に残せるんじゃないか。

これが二人目のマロの物語。

続く

次回更新四月二十二日予定

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